長い記事なので、結論から先に言っておきます・・・
30代、もしくは40代で運転免許の取得が必須の状況になったなら、教習所へ通うのではなく、合宿プランを利用する事をオススメします。
この記事について
この記事は、実際に私が45歳で合宿に参加した時の嘘偽り無いリアルな記録です。中年が参加する合宿がどういったものかイメージしやすいと思います。
読者へ前置きメッセージ
この記事は、教習所ごとの合宿プランを比較する類の記事ではありませんので予めご認識ください。
それでは、どうぞ最後までお付き合いください。
失効という名の幕開け
まずは四十五歳にして運転免許を取得するに至った経緯から説明しましょう。
あれは絶対に失敗できないプロジェクトだった・・・
多額の先行投資でシステムを構築し、必要な人員を確保してから満を持してのスタートだったが、上層部の思惑は大きく外れ、開始直後から利回り一桁レベルの超低空飛行を続けた。その鳴り物入りのプロジェクトは、誰が見ても過去稀に見る大失策の様相を呈していた。
しかし、主要取引先との合同プロジェクトだったため、中止だけは絶対に避けなければならなかった。よってプロジェクトの責任者は業績不振を理由に営業部から管理部への異動を命じられ、早急な立て直しを図るために抜擢されたのが・・・そう、俺だ。
配属初日。プロジェクトの為に設けられた特別室に入室した俺は、目の前に広がっている光景に呆然とした。なぜなら、個人情報を含む大量の書類が雑然と積み上げられ、部署全体が全く管理の行き届いていない無法地帯と化していたからだ。
その日以降、戦場の最前線で命を削るような毎日を過ごすことになった。
「完全実力主義」を掲げる会社において、一度任された仕事はそれがどんなに困難であっても結果を出さなくてはならない。俺は休日を返上してステルス出勤を続け、死に物狂いでトライアンドエラーを繰り返した。
すると運が良いことに三ヶ月で徐々に結果が出てきて、半年で当初の何倍もの業績を叩き出すことに成功した。
利回りは大幅に回復し、部署内から責任者を新たに二名輩出して組織を拡大した。そして配属から一年を過ぎた頃には、主要取引先の営業会議で成功事例として取り上げられるほどになっていた。
そんなある日、ふとしたきっかけで自分の運転免許証を眺めていたら、随分前に失効してしまっていることに気がついて目を丸くした。
とにかく毎日が必死だったので、免許の更新手続きに考えが及ばなかったのだ。自分の愚かさにひとしきり落ち込んだ後、紙くずと化した免許証を眺めながら俺はこう思った。
「あぁ・・・俺の仕事のやり方は圧倒的に間違っていたな」
その頃の俺は慢性的な体調不良を抱えていた。一年間ほぼ休みなしで夜中まで働いたのだから当然と言えば当然だ。
プロジェクトに参加していた取引先企業(日本有数の超一流企業)の担当者(女性)は、俺の猛烈ブラック企業戦士ぶりを見るにつけ、眉をひそめてこう言った。
取引先担当者「心配です・・・お願いですから倒れないで下さいね。」
俺「大丈夫ですよ。プロジェクトがもう少し安定したらゆっくり休みますので。」
しかし、その心配は見事に的中することになる。
ある日、目が覚めるとベッドの上が血の海と化していた。極度のストレスが長期間続いたために、自然治癒力が低下し鼻血が止まらなくなったのが原因だった。その後、一ヶ月以上鼻出血を繰り返したため、入院して手術(傷口を焼いて止血する)することになった。この時、両親に大いに迷惑をかけた。
そして俺は、後の休職期間を経て十五年間勤め上げた自他ともに認めるブラック企業を退職することを決意したのだった。
父の尊厳と長男の責任
我が家では、元旦に父の運転する車に乗って地元の神社に初詣に行くのが恒例になっている。俺がブラック企業を退職した翌年の元旦、いつものように初詣を済ませて帰宅した時、事件は起こった。
玄関から家に入ろうとした瞬間、車庫の方から「ドォーン」という轟音が響き渡り、家がゴゴゴっと音を立てて揺れた。慌てて車庫に走ると、そこには呆然と天を仰いて運転席に座っている父の姿があった。トランクのドアは跳ね上がり、車体後部がかなり潰れている状態だった。
すぐに何が起きたのか察した俺は、傍へ駆け寄り「危ないからエンジン切って!」と叫んだが、父は一点を見つめて何かをブツブツと呟いていて、一向にこちらの言葉に反応を示さない。
窓ガラスを叩いて、「とにかく早くエンジンを切って!」と何度も叫ぶと、ようやく正気を取り戻した父がエンジンを切ってくれた。すぐに運転席から出るように伝えて、俺は屈みこんで車体の下のガソリン漏れを確認した。幸いタンクには損傷は無く、父も奇跡的に無傷だった。これはまさに不幸中の幸いであった。
父は車庫の傍に停めていた自転車が邪魔だったことが原因としきりに言い訳をしていたが、アクセルとブレーキを踏み間違えたことが原因なのは火を見るよりも明らかだった。
もともと歳を取ってから免許を取得した父は運転が決して上手い方ではなかった。見通しの良い直線道路でもフラフラと対向車線へ寄っていき、中央線を踏み越えそうになってはハンドルを切って戻るのを繰り返すほどだ。
だから、家族が同乗する際は助手席は道案内と左の巻き込み確認係、後部座席は中央線に寄ったら注意する係と後続車の状況を確認する係という具合に、役割分担があった。
車は廃車になったし、八十歳を迎えたのを機に免許返納してはどうかと何度も勧めたが、父は一向に首を縦には振らなかった。人生も終盤に差し掛かってはいるけれど、今まで出来ていたことが徐々に出来なくなることを受け入れがたいのは十分に理解できる。だから父を叱咤して免許を取り上げ、尊厳を傷つけるようなことをしてはならないと思っていた。
テレビでは連日高齢者による交通事故が取り上げられ、若者の中には歳を取っても尚、車を運転する人をまるで極悪人であるかのように蔑む人がいる。
自分が歳を取った時、果たして同じようなことが言えるだろうか?
結局、父は免許返納はしなかったが、新たに車を購入せず、免許の更新手続きもしないという選択をした。
これで一安心と言いたいところだが、新たな問題が二つ発生した。一つは父が通っている総合病院へ行くために毎回タクシーを利用しなくてはならなくなった。
もう一つは石油ファンヒーター用の灯油を運べなくなった。灯油問題は父の誕生日にガスファンヒーターを贈ることで解決したが、頻繁に病院に行くにはやはり車が必要だった。
そこで長男の責任として、約十年住んだ埼玉から千葉の実家近くのマンションへ引越し、さらに運転免許を再取得することにしたわけだ。
少々長くなったが、これが四十五歳にして運転免許を再取得するに至った経緯だ。