作品を批判したら駄目ですか?

judgment001

つい先日、なろう系小説家(以下A氏)が読者からの「批判」の投稿に対する是非について私見を述べた記事を読んだ。私はこの類の話題がSNSを賑わすたびに、なんとなく腑に落ちず、心にわだかまりが残るので、この際、自分の感情を整理してまとめておこうと思う。

約一年前、ある有名なゲーム批評系YouTuber(以下B氏)が神ゲーと絶賛したゲームに対して、視聴者たちがこぞって凡ゲーや糞ゲーとコメント欄に投稿したことがあった。それに対してB氏が「作品を批判することは作り手のモチベーションを削いでしまうので絶対にやめるべきだ」と異議を主張しているのを見て、「おいおい、ゲームの批評をして金を稼いでいる人間が批判を否定したら駄目だろう」と突っ込みたくなった。当然ながら、作品を購入するかどうかを検討する際に、手放しで作品の良いところだけをフィーチャーしたコンテンツなど大した参考にならない。

今回、私が腑に落ちなかったA氏の記事は、B氏の異議と似たようなニュアンスが含まれていた。A氏の考える読者の権利とは概ね「読む作品を選ぶ権利」「好きな作品を応援する権利」ということのようだ。読者の権利に、罵詈雑言、誹謗中傷、人格攻撃を含むべきではないのは言うまでもないが、「批判」が読者の権利から逸脱するというのは、作り手としていささか身勝手で行き過ぎた考え方のように思える。

自分の作品を批判されたくないあまりに、批判を人格攻撃と同等に扱って完全に拒絶することは、作り手がやってはいけないことだと思う。なぜなら作り手にとって、受け手による作品への批判が、自身の感覚を客観視するために欠かせないし、感性を研ぎ澄ますために必要であり、それが将来生み出される作品の糧となるからだ。

ここで、作者への誹謗中傷や人格攻撃と作品への批判の違いについて、その特徴をわかりやすく箇条書きでまとめてみる。

< 誹謗中傷や人格攻撃 >
誹謗中傷: 侮辱的な言葉や表現を用いて、作者自身を傷つけることを目的とする。
人格攻撃: 作者の性格や人格、外見、私生活など、作品とは無関係な個人的な部分を攻撃する行為。
非建設的批判: 批判の内容が作品に対する具体的な指摘や改善点を含まない。
例: 「この作者は頭が悪い」「こんな作品を書く人は最低だ」など。

< 批判 >
作品に対する評価: 作品の内容、構成、キャラクター設定、ストーリー展開などに対する具体的な評価や指摘。
具体的な指摘: 作品のどの部分がどう問題であるか、具体的な例を挙げて説明。
建設的批判: 作品の欠点を指摘するだけでなく、どう改善すれば良いかという提案や意見を含む。
例: 「このストーリーは展開が遅すぎて読者を退屈させる」「キャラクターの動機が不明確で、共感しづらい」など。

改めてこうして比較してみると、全く別物であることが再認識できる。

昔、仕事の精度が低い部下に、そのことをやんわりと注意したところ、「僕を他人と比べないで下さい。僕は僕なので。あなたが正しいと思う価値観を押し付けないでください」と真顔で言われたことがある。このように「自分の正当性を他人に押し付けるな」ともっともらしいことを言う人がたまにいるが、それは自分と違う考えを許容できない人の詭弁に過ぎない。実は、他人を批判するなという人ほど、他人への筋違いの批判を腹に抱えていて、他人との折り合いをつけずに、より偏屈で捻じ曲がった価値観に溺れているケースが多いような気がする。

A氏が考える読者の権利とちょっと似た感覚に、推しのアイドルへの恋愛感情がある。推しのアイドルが結婚を発表したり、交際が発覚した際に、「ショックだ」「辛い」という感情が芽生えるのは当然だと私は思うが、「なぜ推しの幸せを純粋に喜べないのか?」というSNSの投稿が一定の称賛を浴びる。これが個人的には少々気持ちが悪いと感じる。

また、ファンだけではなく、アイドル自身の「私のことを〇〇と勝手に決めつけないでください」とか「私にガチ恋するなんてちょっと意味がわからないです」とファンを侮蔑する投稿を見たことがある。はて?100%肯定してくれる存在で無ければファンとは言えないのだろうか?私は、好きなものを応援することは全てを肯定することとは違うと思う。もちろん、批判は完全に自由な権利ではなく、一定のマナーに基づいて行われるべきなのは言うまでもない。

judgment002

「批判を止めよう!批判する前に己を顧みよう」という主張は、一見高尚に聞こえるが、好評も批判も表裏一体なのであって、それはことごとく流動的で、一方だけに限ってはならないと私は思う。また、批判をするなら読まなければ(見なければ)よいという暴論も存在するが、当然ながらこれは本質を見誤った考え方だ。

私はその昔、自身が運営するホームページ(WEBサイト)に数年間、毎日日記を投稿していた。それが毎日約2万人に読まれていたことがある。内容は当たり障りのない取るに足らないものばかりであったが、それでも毎日数件は批判メールが届いていた。あの頃に、何かを表現するということは、必ず批判を伴うものだということを痛感し、それを糧にすることを深く学んだ。あの経験があったからこそ、こうして駄文をブログに公開する図太さを身につけることができたわけだ。

これからも何かを表現する際には、必ず批判が伴うことを肝に銘じておきたい。そして、その批判にこそ、自分の表現をより高めるきっかけが含まれているかもしれないと思えるような心の余裕を持ち続けたいと思う。