近頃、「SNSマーケティングは終わった」という言葉を見かけることが増えてきた。
その背景にあるのは、単なるアルゴリズムの変化といった生易しいものではない。
生成AIの普及によって、世の中のコンテンツ量が爆発的に増殖したことが大きい。
誰もが簡単に、大量の情報を生み出せる時代。
そんな無限の情報の海の中では、少し気の利いた発信をした程度では、もはや微風すら起きなくなってきている。
人々の目を引くためには、より強い刺激を提供し続けなければならない。
だからこそ、特にX(旧Twitter)などでは、
怒り。
対立。
炎上。
嘲笑。
過激な言葉。
そういった“不穏さ”や“過激さ”へ走らざるを得ない構造になっている。
私は、インフルエンサーたちが必死に過激さを追い求めている姿を見ていて、ある考えに改めて思いを馳せている。
それは、昔から漠然と感じていたことだが、心理カウンセラーの資格を取得したあと、ますます強く実感するようになったことでもある。
世の中には、一見すると「攻撃」に見えて、実際には「防御」であるものがあふれている、ということだ。
物事の表層しか見ていないと、この構造に気づかないまま一生を終えることも少なくないだろう。
かつて、孫正義氏は「いかがわしくあれ」と語った。
人の目を引くには、多少グレーで、危うく、ざわつくものに近づかなければならない、という意味なのだろう。
実際、現代のインフルエンサーたちは、常にそうした“際どさ”の中で生きている。
炎上。
挑発。
対立。
過激な言葉。
他人への攻撃。
だが、それらを見ていると、私は時々、別の感情が透けて見えることがある。
それは「怯え」だ。
まるで、自分が真っ暗な水底へ沈んでいかないように、必死に水面へ顔を出し、アップアップと空気を補充している弱った金魚のように見える瞬間がある。
常に誰かに見られていなければ、自分を保っていられない。
注目されなくなった瞬間、自分の存在価値が消えてしまう。
そんな不安が、「攻撃性」という形で表に出ているように見えるのである。
人間は時に、己の不安や劣等感を、「攻撃」という形で外側へ放出する。
ニュースで尽きることなく取り上げられる「煽り運転」もまた、それに近いものなのではないかと、私は思っている。
煽り運転は「自己肯定感を守る防御反応」である
煽り運転のニュースを見るたびに、 多くの人はこう考える。
「短気な人間がキレている」 「常識のない危険人物だ」 「血の気の多いバカだ」
もちろん、実際に危険行為であることは間違いないし、 被害者が恐怖を感じるのも当然だ。
だが、私は常に違う見方をしている。
煽り運転とは、単なる“怒り”ではなく、 「自己肯定感を守るための防御反応」なのだろうと。
こう言っても、頭上に「?」マークが浮かぶ人も多いだろう。 もっとわかりやすい例を挙げてみよう。
動物は怯えると威嚇する。
猫は恐怖を感じると背中を丸め、毛を逆立てる。 犬は不安を感じると唸り、 小動物は身体を大きく見せる。
外から見ると「攻撃的」に見えるが、本質は違う。
「近づくな」 「これ以上、自分を脅かすな」 という防衛本能だ。
表層の状態と、心の奥にある感情が真逆なのである。 煽り運転にも、私はそれに近いものを感じる。
動画サイトなどで、車から降りて怒鳴り散らしている人を見ると、 一見「他者を支配したい人間」に見える。
しかし、あの姿はむしろ 「俺の少ないテリトリーを侵すな」 という悲鳴に近い。
それはなぜなのか。 その背景には、今も色濃く残る学歴社会の弊害があると感じている。
逃げ場のない自己否定と「狭い世界」での価値証明
学歴社会(学校)は、想像以上に残酷である。
勉強ができない。 学校に適応できない。 先生から評価されない。 親から否定される。
これは、普通の人が思っている以上に 「自己否定の連続」なのだと思う。
私の父親は、子供の意見をほとんど尊重せず、 自身の価値観を押し付けるだけでなく、 常に否定から入るタイプだった。
口癖が「情けない」だったので、その感覚が少しわかる。 子供には逃げ場がないのだ。
学校でも家庭でも「お前はダメだ」という空気を浴び続けると、 人はどこかで自己肯定感を守ろうとする。
しかし、勉強や社会適応という大きくて健全なフィールドでは勝てない。 すると、人は「狭い世界」で自分の価値を保とうとする。
それが、常識の範囲外にある「いかがわしい」世界だ。
暴力。 威圧。 仲間内の上下関係。 暴走行為。 タトゥー。 SNSでの攻撃。
そして、そう。「車」である。
車という“小宇宙”がもたらす万能感
運転という世界は、自己肯定感を作りやすい。 実際のところ、運転技術というものにはそこまで大きな差がない。
私は20代で免許を取り、適性検査は「5A」だった。 40代で仕事が忙しすぎて免許の更新を忘れて失効し、取り直した時も「5A」だった。
一般的には「運転適性が高い」部類なのだろう。 しかし、だからといって他人の運転を見て 「自分の方が圧倒的に上手い」と感じたことはほとんどない。
一般道レベルでは、大半の人が大差ないからだ。
だが、運転という世界には、自己肯定感を見出しやすい構造がある。 「相対評価」が見えにくいからだ。
学校のように点数が出るわけでもなく、 会社のように役職があるわけでもない。
だから、 「俺は運転が上手い」 「俺の運転こそ正しい」 という自己認識を維持しやすい。
そして、その「小さな自信」を脅かされると、 人は異常なほど反応する。
煽り運転をする人は、 自分を加害者だと思っていない場合が多い。
むしろ、 「舐められた」 「邪魔された」 「自分の領域を侵された」 と感じている。
つまり、本人の中ではあくまで“防御”なのだ。
さらに、車はこれまでの人生で一番の 大金を払って購入する代物だ。
当然、自分の車に対する異常な執着心が乗り、 それを操る自分の「万能感」とのコンボが、 より“守るべきテリトリー”という意識を増幅させる装置となる。
これは暴走族にも近い。
爆音を鳴らし、威圧し、群れる。 あれも「強さ」というより、 「俺に近づくな」「俺を傷つけるな」という 境界線の提示なのだと思う。
タトゥーにも似た側面がある。
ファッションや文化としての意味合いもあるが、 一部には「防具」のような心理もある。 先に威圧しておくことで、自分が傷つかないようにしているのだ。
煽られる側にも潜む「正しさへの執着」
実は、あおり運転を生むメカニズムはそれだけではない。 煽られる側にも、同じ構造は潜んでいる。
ここは誤解されやすいので慎重に書くが、 決して「煽られる側が悪い」と言いたいわけではない。
私はかつて法人営業をしており、通信タイプのドライブレコーダーや デジタルタコグラフを販売・商品企画し、開発の一部にも携わっていた。
その頃、嫌というほどドライブレコーダーの「ヒヤリハット映像」を見てきた。
だからわかるのだが、 あおり運転の映像を見ると、煽られている側にも 多少の傲慢さや“正しさへの執着”を感じることが多いのである。
「自分は間違っていない」 「譲る必要はない」 「相手がおかしい」
もちろん、理屈としては正しい場合も多い。 しかし、その「自分の正しさへの執着」は、 煽る側の心理と地続きでもあり、あおり運転を引き起こす 原因の一要素であることは間違いない。
程度の差こそあれ、 「自分の領域を守りたい」という心理は、 誰の中にもあるということだ。
だから、煽り運転は簡単にはなくならない。
俯瞰して「受け流す」ことの重要性
本当に心が安定している人は、 運転という行為で自己肯定感を作らない。
ほとんどの人が煽り運転に巻き込まれにくいのは、 運転というステージに自分の価値を置いていないからだと思う。
割り込まれても、 クラクションを鳴らされても、 多少失礼な運転をされても、 「まあいいか」で終わらせることができる。
それで自分の価値が揺らぐことはないからだ。
しかし、人生の中で尊重される経験が少なく、 自己肯定感を保つ場所が限られている人ほど、 「小さな支配領域」に執着する。
そして車内は、その“小宇宙”になりやすい。
煽り運転とは、単なる交通マナーの問題ではない。
「自分には価値がある」と感じられない人間が、 狭い世界で必死に自分を守ろうとする防御反応なのだ。
ここで大切なのは、この怯えから生まれる防御反応に 正面からぶつかることではない。
自分自身の安定を維持するためには、俯瞰した心理を保ち、 相手を刺激することなく「受け流す」ことが ひとつの重要な要素なのだと自覚することだ。

