文明の不可逆な進化と、価値の門番たち
今日、AIクレイアニメに辛辣なリプライが大量についているのを目にした。
最近よく見る、AIで作られた画像や動画、音楽、文章に対して、反射的にこう言う人たちだ。
「本物ではない」
「質が低い」
「魂がない」
「クリエイターを馬鹿にしている」
「こんなものは芸術ではない」
いま流行りの言葉でいえば、AI slop。
要するに、AIで大量生産された中身の薄い粗製乱造コンテンツを指す侮蔑語だ。スピードと量を優先し、努力も独自性も感じられないゴミの山。そういう意味で使われている。もちろん、低品質なAI量産物が現に存在すること自体は否定できない。
雑なものは雑だし、薄っぺらいものは薄っぺらい。
だが、私が気になるのはそこではない。
問題は、その批判がしばしば「AIだからダメ」という方向に一気に飛躍していくことだ。
しかも、そのとき持ち出される理屈が、だいたいいつも同じなのである。
本物ではない。
希少性がない。
安っぽい。
誰でも作れる。
価値がない。
この手の反応、どこかで見たことがあると思わないだろうか。
そう、これはAIに限った話ではない。
歴史上、新しい表現技術が現れるたびに、ほとんど同じ構図が何度も繰り返されてきた。
まず、複製技術の時代から同じだった
作品が一つしか存在しない時代には、唯一性そのものが価値だった。
だが印刷や複製技術が広がると、情報もイメージも大量に流通するようになった。そこで強く意識されるようになったのが、「複製できるものは価値が薄まるのではないか」という不安である。
この問題を有名な形で論じたのが、20世紀前半のドイツの思想家・批評家ヴァルター・ベンヤミンだ。ベンヤミンは、機械的複製によって作品の「アウラ」が揺らぐと論じた。アウラとは、ざっくり言えば、その作品がそこで一回限りのものとして存在している感じ、唯一性や本物らしさの気配のことだ。
これは今のAI批判とほとんど同じだ。
「一枚しかない手描き絵」と「無限に量産できるAI画像」を比べて、前者に価値があり後者にはない、と言いたがる人は多い。だが、その価値観自体が、複製技術の登場以降ずっと揺さぶられ続けてきたものだ。
要するに、「複製できるから価値が低い」という理屈は、いつの時代も新技術に向けられてきた古典的な反発なのである。
新しくも何ともない。むしろテンプレだ。
写真が出たときも、「機械的で芸術ではない」と言われた
写真が普及し始めた19世紀にも、似たような反応があった。
写真は初期には、技術に依存するがゆえに「機械的な芸術」として軽んじられることがあった。つまり、「機械がやっているだけで、芸術ではない」という見方だ。
さらに、19世紀フランスの詩人・批評家シャルル・ボードレールは、1859年のサロン評で写真にかなり攻撃的だった。ボードレールは近代芸術論でもよく参照される人物だが、写真については、想像力や精神性より機械的再現を優先するものとして強く警戒したことで知られる。
この構図は笑えるほど今と同じだ。
いまAIに対して「作者の魂がない」「機械的だ」「人間の創造性を損なう」と言っている人たちは、写真が出た時代にいたら、ほぼ確実に同じことを言っていたはずである。
もちろん、その後どうなったかは言うまでもない。
写真は定着した。しかも、ただ定着しただけではない。
写真ならではの構図、光、時間、記録性、偶然性といった独自の美学を持つ表現として確立した。写真家たちは、絵画の下位互換などではなく、写真でしかできないことを切り開いていった。
つまり、新技術はいつも最初、既存の物差しで測られて不当に低く評価される。
そして成熟してくると、あとから「これはこれで別物だった」と言われ始める。
AIもかなりの確率でこのコースを通る。
CGが出たときも、「軽い」「不自然」「嘘っぽい」と言われた
CGの台頭期にも反発は強かった。
ただし、印刷や写真のときと少し違って、CGへの批判は「複製できるからダメ」というより、不自然さや手触りのなさに向かいやすかった。
映画においては、デジタルイメージがリアリズムを壊すとか、画面が作り物っぽくなるとか、そういう批判が繰り返された。
象徴的なのが、いわゆる uncanny valley、日本語でいう「不気味の谷」だ。
人間にかなり近い見た目なのに、微妙にズレているせいで、かえって強い違和感や不気味さを覚える現象である。
『ポーラー・エクスプレス』のような作品は、その代表例としてよく挙げられてきた。
そしてその反動として、実物の造形や特殊メイクの“本物感”が再評価される流れも何度も起きた。
これも、いまAIに対して「やっぱり手描き」「やっぱり実写」「やっぱり人間の演奏」と言いたがる人たちの心理とかなり近い。
ただ、ここで見落としてはいけないのは、CGが最終的に映画やゲームやアニメの中心技術になったことだ。
最初は「軽い」「嘘っぽい」と言われたものが、やがて当たり前になる。
そしてその頃には、批判していた人たちの多くは黙る。あるいは、何事もなかったかのように使い始める。
ではAI批判は何が新しいのか
結論から言う。
批判の文言は新しくない。
だが、焦りの質が以前より露骨になっている。
印刷の時代には、複製によって唯一性が揺らいだ。
写真の時代には、機械が芸術の領域に入ってきた。
CGの時代には、見た目のリアルや質感の定義が変わった。
そしてAIの時代には、ついに「作る」という行為そのものの参入障壁が崩れ始めた。
ここが決定的に大きい。
AIはただの新しい画材ではない。
ただの新しいカメラでもない。
ただの新しいレンダリング手法でもない。
AIは、これまで技能、経験、センス、制作体力、時間の複合で成り立っていた創作の一部を、雑にでも代替し始めた。
だから反発が強い。
なぜなら、失われるのが単なる様式ではなく、優位性の根拠そのものだからだ。
「本物ではない」と言う人は、何を守ろうとしているのか
ここで私は、反AIの人たちを二種類に分けて考えている。
一つは、本当に質の低下を心配している人。
これはまだわかる。
ネット上には実際にAIの粗悪品が溢れているし、作品を無断学習に使う問題も現実にある。そこへの批判は当然あっていい。
だが、もう一つ別のタイプがいる。
こちらの方が、私にはずっと本質的に見える。
それは、自分の優位性が崩れることへの不安を、価値論に置き換えて語る人である。
「本物ではない」
「希少性がない」
「質が低い」
「誰でも作れる」
「こんなのは芸術ではない」
こういう言い方は、一見すると高尚な価値観のように見える。
だが実際には、自分が長年依存してきた評価軸が無効化される恐怖が、かなりの割合で混ざっている。
たとえば、自分は「良いものを見分けられる側」だと思っていた人。
あるいは、作れないが批評はできる、うんちくは語れる、講釈は垂れられる、そういうポジションに安住していた人。
そういう人ほど、AIを前にして居心地が悪くなる。
こういう人たちは、これまで「作る側」と「語る側」がはっきり分かれていたから成立していた。
自分では作れなくても、良し悪しを論じる側としては居場所があった。
だがAIは、その境界を曖昧にする。
制作のハードルを下げてしまうからだ。
その結果、これまでなら乱暴すぎて成立しなかった
「だったら自分で作ってみろ」
という反論が、前よりずっと現実味を帯びてしまう。
もちろん、批評には批評の価値がある。
だが、まったく作れないまま上から選別するだけの立場は、以前より維持しにくくなる。
「作れないけど見抜けます」というポジションの相対的な価値が下がるからだ。
その居心地の悪さが、AIそのものへの嫌悪や拒絶に変換されているケースは、かなりあると思う。
その結果、何が起こるか。
価値論の顔をした防衛反応が始まる。
反AIは、文明の恩恵だけを受け取りながら「自分の領域」だけ聖域化している
ここで私がかなり強く感じるのが、反AIの人たちのダブルスタンダードだ。
彼らは生成AIに対して、「無断で学習している」「他人の作品を踏み台にしている」「倫理的に問題がある」と言う。
そこだけ切り出せば、確かに一理ある。
だが、その理屈を本気で突き詰めるなら、今の文明のかなりの部分を拒絶しなければ筋が通らない。
たとえば医療だ。
私たちが日々恩恵を受けている薬や治療法は、長い時間をかけた膨大な試験、失敗、臨床データ、そして多くの場合、動物実験の上に成り立っている。倫理的にまったく無傷なプロセスではない。むしろ、きれいごとだけでは成立していない世界だ。
それでも大半の人は、いざ自分の命や家族の健康がかかれば、その恩恵を受ける。
「過程に問題があるから私はその薬も治療も一切拒否します」と言い切る人は、そう多くない。
ここで言いたいのは、だから何をしても許される、という話ではない。
そうではなく、文明というものはそもそも、完全な潔白の上にだけ築かれてきたわけではない、という現実だ。
生成AIも同じだ。
既存作品をそのまま引き写したような模倣や、権利侵害まがいの使い方は当然問題だ。そこは線を引かなければならない。
だが一方で、AIそのものの学習や進化のプロセスを丸ごと否定し、「こんなものは存在してはならない」と叫ぶのは、文明の他の領域で自分が享受している複雑な恩恵を見ないふりした、かなり都合のいい態度に見える。
要するに、自分の生活を支える技術革新や産業のグレーさには目をつぶるのに、自分の領域が侵された瞬間だけ急に倫理の純度が上がるのだ。
私はこれを、かなり欺瞞的だと思っている。
しかも今どきは、その矛盾がもっと露骨だ。
たとえばXを使っている時点でそうである。
今の巨大プラットフォームは、表示順位、推薦、広告配信、スパム判定、翻訳、要約、検索補助など、AI的な処理を深く組み込んで動いている。
そこで日常的に発信し、拡散の恩恵を受け、アルゴリズムに乗せてもらっておきながら、生成AIだけを取り出して「これは邪道だ」とやるのは、だいぶ都合がいい。
さらにわかりやすいのが、生成AIによる画像や動画を激しく批判しておきながら、ChatGPTやGeminiのようなLLMは何の抵抗もなく使う人たちだ。
表では反AIを名乗りながら、裏では文章の整理、要約、検索補助、壁打ち、アイデア出しに平然と使っているのだとしたら、もうそれは思想でも何でもない。
ただの使い分けである。
いや、むしろ逆に、そこまでAIを毛嫌いするなら、LLMも使わない方が筋だろう。
使っていないならそれはそれで極端だし、使っているなら使っているで、なぜ画像や動画だけ殊更に汚らわしいものとして扱うのか説明がつかない。
公には言わないが、陰でこっそり使っているのだろうか。
だとしたらなおさら滑稽でしかない。
要するに、自分が気持ちよく使えるAIは便利な道具として受け入れ、自分の居場所や優位性を脅かすAIだけを「倫理」や「本物らしさ」の言葉で叩いているように見えるのだ。
そういう選り好みを、私は高尚な批評とは呼びたくない。
審美眼への自負? いや、それは審美眼の限界かもしれない
私はよく、反AIの人たちが「審美眼」を持ち出すのを見て、かなり違和感がある。
「AIかよ、くだらねぇ」
みたいな、あの感じである。
作品そのものをちゃんと見る前に、ラベルを見た瞬間に鼻で笑う。
AIとわかった瞬間に、もう自分の中では評価が終わっている。
それを審美眼と呼ぶのは、さすがに無理があると思う。
というのも、本当に審美眼があるなら、新しい表現技術が出てきたときに最初に起こるのは、拒絶ではなく観察のはずだからだ。
もっと言えば、価値観のアップデートのはずである。
いまAIは過渡期にある。
粗い。雑なものも多い。変な指、変な日本語、変な構図、空疎な量産物も山ほどある。
それは事実だ。
だが、未来を考えれば、AIがアナログ的な完成度や自然さをどんどん超えていくことはほぼ確実だ。
写真がそうだったように。CGがそうだったように。いま「不自然」「安っぽい」と言われているものの多くは、いずれ改善される。むしろ改善されないと考える方が不自然だ。
写真も、当初は機械的で芸術性がないと見なされていたが、後には独自の表現として確立したし、CGも長い時間をかけて主流になった。
そのとき困るのは誰か。
自分の拙い物差しでしか良し悪しを測れなかった人である。
つまり、「審美眼がある」と思っている人の中には、実際には「今の自分に判定できる範囲だけを良いものと呼んでいる人」が相当数混ざっているのではないか、ということだ。
本当の審美眼とは、完成された旧来の価値を守ることではない。
まだ十分に言語化されていない新しい価値の芽を嗅ぎ取る力の方だろう。
一流ほど受け入れが早い、というのはかなり本当だと思う
私は、一流のクリエイターほどAIを受け入れるのが早いと思っている。
もちろん全員ではない。だが傾向としてはそうだ。
なぜなら、本当に創る人は、技術を自分の表現を拡張する道具として見るからだ。
新しい道具が出たら、まず触る。
欠点があることも、危険があることもわかったうえで、それでもどこまで使えるのかを見に行く。
拒絶から入るのではなく、まず把握する。
逆に、自分では高いクオリティのものを生み出せないのに、批評や講釈だけは一丁前な人ほど、反AIに落ちやすい。
これはかなりあると思っている。
要するに、
創る人は道具として見る。
創れない人は脅威として見る。
もちろん、これも100対0ではない。
優れた作り手が倫理面からAIに強く批判的であることもあるし、逆に浅い人が面白がって飛びつくだけということもある。
だが大枠では、かなりこの傾向がある。
「ラガード」という言葉も近いが、本質はそこだけではない
ここで少し用語の説明を入れておく。
ラガードという言葉は、アメリカの社会学者エヴェレット・ロジャースが広めたイノベーション普及論でよく知られている。
ロジャースは、新しい技術や考え方が社会にどう広がるかを整理した人物で、「イノベーター」「アーリーアダプター」「ラガード」といった分類で有名だ。
そこでラガードとは、新しい技術や考え方を最後に採用する層を指す。一般に、伝統志向が強く、変化に慎重な層として説明される。
確かに、反AIの人の中には、このラガード的な気質を持つ人も多いだろう。
昔ながらのやり方が好きで、変化に強い警戒を示し、「そんなものは本物じゃない」と言いながら最後まで抵抗するタイプだ。
だが、私は単に「遅れている人」とだけ見るのは少し足りないと思っている。
本質はもっと嫌なところにある。
それは、価値観のアップデートが遅いだけでなく、
自分が乗り遅れていることを認めたくないので、価値そのものを否定し始める
という態度だ。
ただ不採用なだけなら、まだいい。
興味がない、使わない、それは自由だ。
だが、自分が理解できないもの、自分が優位に立てないもの、自分の物差しが通用しなくなるものに対して、
「だから価値がない」
「だから偽物だ」
と断じ始めると、話は変わる。
それは批評ではない。
かなりの割合で、自尊心の保全である。
もちろん、無断学習の問題はある。
だが、それと進化を止められるかは別問題だ
ここで誤解のないように書いておく。
私は、作品を無断で学習に使ってきたという問題を軽く見ているわけではない。
そこには法的・倫理的に未整理な部分があるし、クリエイター側が怒るのも当然だと思う。
だが、それでも私はこう考える。
進化は止まらない。
止まらないものを前にして、「本物ではない」「魂がない」「希少性がない」と叫び続けるのは、正直あまり賢い態度には見えない。
歴史上それで止まったものはほとんどない。
印刷も、写真も、CGも、結局は広がった。反発はあった。批判もあった。だが普及した。残酷だが、それが現実である。
ならば考えるべきは、「止められるか」ではなく、
どう付き合うか。
どこで線を引くか。
どんなルールにするか。
何を人間の価値として再定義するか。
その方だろう。
それをやらずに、「私は本物がわかる側です」という顔だけしていても仕方がない。
むしろそういう人ほど、あとで一番みっともない形で追いつこうとする。
結論
私は、反AIの人たちの多くを、思慮深い人たちだとは思っていない。
むしろ逆だ。
途中までは考えているが、その先を考えたくない人たちに見える。
たしかに今のAIには問題がある。
粗悪品も多い。
無断学習の問題もある。
市場をノイズで埋める量産型コンテンツも多い。
そこまでは正しい。
だが、その先にあるはずの問い、
「では技術が成熟したら?」
「では人間の価値はどこに残る?」
「では新しい審美眼とは何か?」
「では新しい創作とは何か?」
そこに進まず、
「本物ではない」
「質が低い」
「希少性がない」
で話を止めてしまう。
それは深いのではない。
思考停止を高級そうな言葉で包んでいるだけだ。
本当の審美眼があるなら、過去の価値にしがみつく前に、新しい価値の兆しを見に行くはずだ。
本当に創造的な人なら、拒絶より先に観察と試行が来るはずだ。
そして、本当に未来を見る人なら、好き嫌いとは別に、変化はもう始まっていて、しかも止まらないことを前提に考える。
AIを礼賛しろと言いたいわけではない。
だが、反AIを知性や良識の証明みたいに扱う空気には、うんざりする。
それは多くの場合、知性ではない。
審美眼でもない。
正義でもない。
かなりの割合で、
古い物差しを手放せないことへの不安であり、
自分の優位性が崩れることへの焦りであり、
時代の更新に適応できないことへの苛立ちである。
そして歴史はたぶん、今回も同じように進む。
最初は偽物扱いされる。
次に粗悪品が量産される。
その後、表現として洗練される。
やがて当たり前になる。
最後に、かつて叩いていた人たちが、何事もなかったかのようにその恩恵を受ける。
私はその流れを、たぶん止められないと思っている。
だから止めようとする側には立たない。
どうせ止まらないのなら、見るべきなのは拒絶ではなく、その先だ。

