「日本は中国に抜かれる」――40年前、地味な国語教師が放った予言とAI時代の現実

ASIMOvs 先行者
目次

笑いの裏側にあったもの

かつて、ネットの世界には「侍魂(さむらいだましい)」という伝説的なテキストサイトがあった。

切れ味の鋭い語り口と、毒気を含んだ独特のユーモアで一時代を築いたそのサイトの題材の中でも、とりわけ強烈な印象を残したのが、中国の二足歩行ロボット「先行者」だった。(ロリポップ移設先

先行者

当時、日本にはホンダの「ASIMO」があった。2000年に発表されたその姿は、滑らかな歩行と親しみやすいデザインによって、「未来」がすでに始まっているような感覚を人々に与えていた。対して先行者は、あまりにも無骨だった。継ぎはぎのような外装、むき出しの配線、洗練とはほど遠い造形。とりわけ股間から突き出した排気筒めいた構造物は、のちにネットで「中華キャノン」などと揶揄され、畏怖の対象ではなく、格好の笑いのネタとして消費された。

今でも「先行者」で画像検索すると、当時、日本人がいじり倒していたことがうかがい知れる。

無理もない。当時の「メイド・イン・チャイナ」は、安かろう悪かろうの代名詞だった。日本人の多くは、中国を巨大な市場というより、安い労働力の供給地として見ていた。私自身も、その空気の中にいた。

それでも、画面の前で笑いながら、心の片隅には小さなざわめきが残っていた。

――いつか、これを笑えなくなる日が来るのではないか

それは先見の明などという立派なものではない。もっと個人的で、もっと根深い記憶。中学生の頃、ある女性教師から聞かされたひと言が、長いあいだ私の中に棘のように残っていたのである。

地味な国語教師、N先生の言葉

国語の授業

先行者がネットを賑わせるより、さらに十数年さかのぼる。1987年頃。私が中学生だった頃のことだ。

思春期とは、大人を無条件で信じる時期が終わる季節でもある。教師という存在からも神々しさが剥がれ落ち、こちらは品定めをするような目で大人を見るようになる。そんな年頃にあって、私が例外的に敬意を払っていたのが、国語を担当していたN先生だった。

化粧っ気はほとんどなく、服装も地味で、教室で華やかさを放つタイプではない。生徒のあいだで噂になることもない。だが、その人の言葉には、教科書をなぞるだけの教師にはない厚みがあった。知識がある、というだけではない。ものごとを、時間の流れの中で見る目を持っていた。

先生の座右の銘は「人間万事塞翁が馬」だった。

ある日の授業で、文脈はもう覚えていないが、先生は淡々とこう言った。

日本はいつか、すべての分野で中国に抜かれる時が来ます

私は耳を疑った。聡明な先生が、なぜそんな極端なことを言うのかと思った。

しかし先生は、声を荒らげるでもなく続けた。

「これからは情報の伝達速度がどんどん上がっていく。そうなれば、最後にものを言うのは、土地と人口という母数です

そのときは理解できなかった。だが、その言葉だけは妙に重く、私の記憶の底に沈んだまま、長い時間を生き延びた。

家電量販店の現場で見た、ねじれた優越感

中国人クレーマー

それから年月が過ぎ、私は社会人になった。1999年4月、家電量販店の店頭に立つようになっていた。

現場で働くうち、私は中国に対してかなり強い嫌悪感を持つようになっていた。中国製品の初期不良に振り回され、店頭でのトラブル対応に追われる日々。さらに、接客の最前線では、嫌な印象だけが記憶に残ることも多かった。いま振り返れば、それは中国そのものへの理解というより、限られた現場体験が生んだ偏った感情だったのだと思う。

象徴的だったのは、中国人のお客様のこんな言葉だ。

「中国製なんて信用できない。日本の店なら、もっとまともな物を売れ!」

自国製品を見下しながら、日本ブランドには過剰な期待を寄せる。そのねじれた態度に、私はうんざりしていた。

そして心のどこかで、こう思っていた。

――やはりN先生の予言は、外れるのではないか。

だが、実際には変化は静かに、しかも着実に進んでいた。

当時、日本メーカーの家電はすでに純国産ではなかった。生産の重要な部分は中国に依存しており、その中国のコストが上がると、今度はマレーシアやインドネシアなど、さらに安価な労働力を求めて拠点を移していった。日本の看板を掲げながら、製造の現場はより低い賃金を求めて移動し続ける。そんな構造の中で、店頭の景色も少しずつ変わっていった。

見慣れないロゴの製品が増え始めたのである。

いまでは当たり前の存在だが、当時のサムスン(Samsung)、LG、ハイアール(Haier)は、まだ「後発」の印象を引きずっていた。ところが、それらは日本製品より安いだけではなかった。分野によっては、機能も、勢いも、明らかに上回り始めていた。

あの頃、私が目の前で見ていたのは、中国に限らない、アジア全体の工業力の地殻変動だったのだと思う。かつて日本が見下していた近隣諸国のメーカーが、価格でも技術でも存在感を増し、日本の家電が絶対の基準ではなくなっていく。日本の没落は、ある日突然始まったのではない。現場の売り場の片隅で、すでに静かに始まっていたのである。

2003年、先行者を笑えなくなった頃

テキストサイト編集

店頭で現実に揉まれる一方、ネットの世界でも別の熱狂が起きていた。2001年前後、「先行者」は侍魂を通じて広く知られ、ネット中で笑いのネタとして消費された。

それからしばらくして、私もまたテキストサイトのブームの中にいた。1日2万人以上が訪れる日記サイトを運営し、日々の雑感を書き散らしていた頃のことだ。

ある日、ふとN先生の言葉を思い出し、私は日記にこんな趣旨のことを書いた。

失笑の的になった中国製ロボット『先行者』も、日本がいずれ中国に抜かれるという仮説に立てば、そう簡単に笑い飛ばせるものではないのかもしれない

その時点では、まだ逆張りもあった。テキストサイト的な皮肉もあった。

しかし、それだけではなかった。そこには、まぎれもなく本物の不安が混じっていた。

笑っていいのか。

いま笑っているこの光景は、未来の自分たちの敗北を先取りしたものではないのか。

N先生の予言は、その頃にはもう単なる思い出ではなくなっていた。私の中でそれは、現実の輪郭を帯びた仮説へと変わりつつあったのである。

的中した予言の先にあるもの

中国製ロボットの転倒

そして今、私はあの言葉がかなりの部分で現実になったと感じている。

もちろん、あらゆる分野で単純に勝った負けたと整理できるほど、世界は単純ではない。日本が今なお強みを持つ領域もある。

だが少なくとも、かつて日本人が当然の前提として信じていた「日本が上で、中国は下」という感覚は、もはや成り立たない。

かつては未完成で粗雑に見えたものが、いまでは市場を取り、技術を磨き、現実に日本を脅かす存在になっている。

むしろ現在の世界では、未完成でもまず出す、粗くてもまず走らせる、失敗しながら市場を取りにいく、という姿勢が勝敗を分ける場面が増えている。

その意味で、先行者は象徴的だった。

かつてのスティーブ・ジョブズがそうであったように、覇権を争う米中は、たとえハリボテのような未完成品であっても、大風呂敷を広げて夢を見せ、市場を切り開きながら製品を進化させてきた。セレモニーで転ぶ中国のロボットも、思想の根っこはそこに近い。

そして、その構図はAIの分野でさらに露骨になっている。

今の日本のAIニュースはどうにも小粒だ。「日本語に特化した」とか「セキュリティに強い」といった、枝葉の限定的な話ばかりが目につく。

世界のAIの覇権争いが、モデルの規模や投資額、計算資源の総量といった、結局は「数」がものを言う勝負に移っているというのに、日本ではどこか話が細部に閉じこもっている。

その一方で、TikTokやYouTubeショートを開けば、いまも中国製ロボットの展示会での失敗映像を拾い集め、溜飲を下げている人々がいる。かつての「先行者」を笑っていた構図は、形を変えて今も続いている。

ただし、笑いの質は変わった。あの頃はまだ、相手を見下す余裕の笑いだった。だが今は違う。

現実逃避の笑いである。

日本人は、完成度の高いもの、美しいもの、破綻のないものを尊ぶ傾向が強い。それはひとつの美徳であり、日本のものづくりの強さでもあった。だが同時に、その美意識は「未完成な挑戦」を軽蔑する態度にもつながりうる。

先行者の少し後、サントリー「燃焼系アミノ式」のCMで、女子高生が前方宙返りを繰り返す映像が話題になった。

当初は「どうせCGだろう」と受け止められたものが、実写だとわかった瞬間、賞賛に変わった。作られた凄さより、本物の身体が成し遂げた凄さに価値を置く。その感覚はとても日本的だと思う。

日本人は、本物であること、筋が通っていること、汚れていないことに強く価値を置く。そこには美しさがある。

反AIの人々が抱く拒否感も、その延長線上にあるのだと思う。学習元の著作権や、創作者の権利が踏みにじられているのではないかという感覚は、決して単なる言いがかりではない。むしろ、日本人がそこに強い違和感を覚えるのは自然なことだ。

だが、未完成で、いびつで、倫理的にも制度的にも追いついていない技術が、先に世界を書き換えてしまう局面では、その潔癖さが国ごと取り残される原因にもなる。

燃焼系アミノ式のCMで、CGではなく実写だとわかった瞬間に評価が跳ね上がったのと、根は同じだ。

その感覚自体は美しい。だが、AIの時代には、その価値観がそのままでは通用しない。

AIは、人間の感情に配慮して進化の速度を緩めてはくれない。既存の作法や常識に敬意を払ってくれるわけでもない。

粗削りでも先に出し、使いながら改良し、大量のデータと計算資源で性能を押し上げていく。そうした競争原理の前では、「完成してから出す」「失敗のないものだけを認める」という姿勢は、しばしば足枷になる。

いまになって、N先生の言った「母数」という言葉の意味がわかる気がする。

現代のAI、とりわけ大規模言語モデルの進化では、データの量、計算資源、資本、人材、市場規模が相互に増幅し合う。

つまり、N先生の言った「母数」が、そのまま競争力に変わっていく世界なのである。

日本も手をこまねいているわけではない。AI・半導体分野では、2030年度までの7年間で10兆円以上の公的支援を打ち出している。

だが、米国ではすでに4年間で約80兆円規模のAIインフラ投資構想が走り、中国も2025年に約1.3兆円規模の国家AI産業投資基金を立ち上げ、さらにAIや半導体を含む先端分野全体では約22兆円規模の国家誘導基金を打ち出している。半導体だけを見ても、第3期基金は約7.5兆円に達する。

もちろん同じ性質の数字ではない。だが、それでも見えてくる事実はひとつだ。日本が7年かけて積み上げる公的支援の外側で、米中はすでに、より大きな桁の資金を、より速い時間軸で動かしている

だからこそ、現実を直視する必要がある。

かつて先進国だった、ではなく、いま何を武器に戦うのか。

物量で劣るなら、どこで勝負するのか。

完璧主義を美徳として抱えたまま、どこまで速度に適応できるのか。

その問いを避けないことが、ようやく次の一歩になる。

40年近く前、まだ誰もが日本を技術大国だと信じて疑わなかった時代に、その先の景色を言葉にしていたN先生。

先生の座右の銘であり、皮肉にも中国の故事でもある「人間万事塞翁が馬」を、私はいま別の意味で噛みしめている。

好事が災いに変わり、災いが好事に変わる。

もしそうなのだとしたら、いまの劣後もまた、それだけで終わるとは限らない。

遅れを自覚した国が、そこで初めて変わることもある。かつての技術大国が、AIという破壊的な道具を本気で受け入れたとき、まだ何かをやり返せる余地は残っているのかもしれない。

私は、その可能性を捨てたくない。

人間とロボット

だから私は、今日もAIと戯れる。

笑うのをやめ、拒絶をやめ、この厄介で破壊的で、それでも魅力的な相棒と付き合い続ける。

その先にしか、逆転の芽はないように思えるからだ。

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