最近、「退職代行」という言葉をよく目にするようになりました。
そんな中で、退職代行サービスを利用する人々に対し、「人間性の欠落」といった言葉で安易に結論付けようとする風潮があります。
しかし、そのような批判をする人々は、おそらく退職代行を利用しない、いわゆる「通常の手続き」を踏んで退職した人に対しても、結局のところ「責任感がない」「組織運営というものを分かっていない」などと、何かしらの理由をつけて責め立てるのではないでしょうか。
その根底には、問題の原因を常に他者に求めようとする、極端な「他責思考」が潜んでいるように思えてなりません。彼らは、自らの内にあるその心理的な壁の存在に気づいていないか、あるいは薄々気づいていたとしても、それを認めたくないのかもしれません。
このような風潮を象徴するかのように、あるビジネス系インフルエンサーが、ネット番組『REAL VALUE』の「退職代行についての討論」で「退職代行を使うやつは社会のゴミだ」と発言し、賛否両論を巻き起こしています。
この発言に代表されるように、退職代行サービスに対する風当たりは依然として強く、特に経営者層からは「責任感のない人間が使うものだ」「安易に会社を辞めるための手段に過ぎない」といった声が後を絶ちません。
彼らの多くは、退職代行を使わざるを得ないような状況を、一部の典型的なブラック企業で起こるレアケースとして捉え、一般化することを嫌います。また、「(退職代行を使うのは)ただ気にしすぎなだけ」と一蹴し、個人の感受性の問題にしようとする向きもあります。
これらの発言の裏には、退職代行を利用する人々をどこか人間的に欠落していたり、能力が不足していたりする存在だと頑なに信じることで、自らの成功体験や価値観、あるいは経営者としてのアイデンティティを保とうとする強烈な心理が働いているように見えてなりません。
実際、経営者という立場は、時に弱者の感情に過度に引きずられることなく、冷徹な判断を下さなければならない場面も多く、ある種の共感性の低さが経営者としての資質として求められるという、不都合な真実も存在するのかもしれません。
経営者にはサイコパス的な傾向を持つ人が多いという心理学者による数々の研究結果も、それを裏付けているかのようです。実際、私は“ブラック企業”と呼ばれる会社で、そうしたパーソナリティを持つ責任者を何人も目にしてきました。
しかし、私は声を大にして言いたいのです。そのような厳しい意見や、経営者特有の心理構造を理解した上で、それでもなお、退職代行サービスは現代社会において必要な存在である、と。
その思いは、私自身が15年以上身を置いた離職率の高い企業で見送ってきた、数百人もの元同僚や部下たちの顔、そして何よりも、私自身の苦い経験から来ています。深く関わった人だけでも、優に100人は超えるでしょう。その中には、ある日突然、何の連絡もなく会社に来なくなる、いわゆる「飛ぶ」という形で職場を去った者もいました。
かつて、私が責任者として統括していた組織では、この「飛ぶ」という状況はほとんど発生しませんでした。それは、一人ひとりの部下と親身に向き合ってきたからだという自負があり、私のささやかなアイデンティティでもありました。しかし、役職が上がり、任される責任が重くなり、組織の人数が大幅に増えるにつれ、一人ひとりと向き合う時間は物理的に減っていきました。そして私は、徐々に組織の成果、つまり会社から求められる売上や利益を必死に追い求めるようになっていったのです。
そんな中で、忘れられない出来事が起こりました。私の直属の部下、A君が「飛んだ」のです。
かつての私と「飛んだ」部下 ~成果主義の陰で見失ったもの~
A君は入社後すぐに頭角を現し、営業成績も常にトップクラスでした。彼の受注には少々荒っぽい部分もありましたが、成果を上げている彼を、私はそこまで問題視しませんでした。しかし、彼の成果に陰りが見え始めた頃から、状況は悪化の一途をたどります。自身が起こしたクレームを放置したり、商品のデメリットを顧客に説明しないなど、これまで以上に強引な受注が増えていきました。そしてある日、彼は出社しなくなったのです。
私は躍起になって彼と連絡を取ろうとしましたが、携帯電話は一切通じません。処理が滞った彼の案件からは、次々とクレームが発生し、対応に追われる日々。彼が住んでいるとされるアパートの管理会社に連絡を取り、ようやく間接的に連絡が取れましたが、案件の詳細なヒアリングや、会社のセキュリティカードの回収すらできませんでした。
この時、私は心の底から「彼のパーソナリティに問題があったのだ」と思っていました。責任感の欠如、自己中心的な行動。そう結論付けることで、自分自身を納得させようとしていたのかもしれません。
退職代行を「ありえない」と断じる心理の根っこ
今思えば、当時の私もまた、「退職代行」というサービスを頭ごなしに否定する経営者や管理職と、同じような心理状態にあったのだと思います。
- 「裏切られた」という感情と責任転嫁: 手塩にかけて育てたつもりだった部下に突然去られ、「信頼していたのに裏切られた」という感情が先に立ちました。そして、その原因を彼の個人的な資質に求めることで、自分自身や組織のあり方に対する内省から目を背けていたのです。これは心理学でいう「セルフサービング・バイアス(自己奉仕バイアス)」そのものだったのでしょう。
- 自己のマネジメント能力への自信の揺らぎを認めたくない: 部下の突然の離脱は、少なからず「自分のマネジメントに問題があったのではないか」という可能性を示唆します。これを認めることは、管理職としての自尊心を傷つけます。だからこそ、「A君が特殊だったのだ」「組織運営に問題はなかった」と考えることで、認知的不協和を解消しようとしていたのです。
- 自己欺瞞による内省の放棄: 本来であれば、この一件は私のマネジメントや組織運営を見直す絶好の機会でした。しかし、問題を直視せず、「彼が未熟だっただけだ」と結論付けてしまった。これは、まさに自己欺瞞であり、成長の機会を自ら放棄する行為でした。
彼らにとって、退職代行サービスの存在は、自らの経営手腕や組織のあり方を根本から問われているようで、不快極まりないものなのかもしれません。しかし、その批判の矛先をサービスや利用者にばかり向けていては、本質的な問題解決には繋がりません。
気づきと変化 ~なぜ彼は「飛ばなければ」ならなかったのか~
A君の一件から数年後、私はさらに大きな組織運営を任されることになりました。より多くの部下と接し、様々な価値観に触れる中で、ようやく当時のA君の行動の背景に思いを馳せることができるようになったのです。
トップクラスの成績を維持し続けなければならないというプレッシャー。思うように成果が上がらなくなった時の焦り。そして、荒い受注やクレームを誰にも相談できず、一人で抱え込んでいたであろう孤独感。当時の私は、成果を求めるあまり、彼のそうした心の悲鳴に気づくことができませんでした。彼が「飛ぶ」という最終手段を選ばざるを得なくなるまで追い詰められていたことに、思い至らなかったのです。
この経験は、私にとって大きな教訓となりました。追い詰められた人の心理というのは、想像以上に複雑で、外からは見えづらいものです。
そして、それを理解し、受け止めるには、相応の社会経験と、何よりも相手の立場に立って物事を考える「共感性」が不可欠なのだと痛感しました。
退職代行を「ダサい」と断じる一般社員の心理
一方で、同じように会社勤めをしている一般社員の中にも、退職代行サービスを「ダサい」「情けない」と批判する人々がいます。彼らの心理には、経営者層とはまた異なる、しかし根底では通じるものがあるようです。
- 現状への不満と変化への恐れ: 現在の職場や待遇に何らかの不満を抱えていたり、新しい可能性を模索したいという気持ちを持っていたりするものの、実際に会社を辞めるという決断を下す勇気や経済力、スキルがないと感じている人は少なくありません。そのような人々にとって、退職代行を使ってあっさりと会社を辞めていく人の存在は、ある種の脅威であり、同時に羨望や嫉妬の対象ともなり得ます。
- 自己欺瞞による現状肯定: 「自分は辞めたいけれど辞められない」という葛藤を抱えている場合、他者の退職を素直に受け入れることは、自身の無力さや不甲斐なさを認めることになりかねません。そこで、「退職代行を使うなんて卑怯だ」「自分は今の場所で頑張っている方が正しい」と考えることで、現状に留まっている自分を必死に肯定しようとします。これは、自分より「下」と見なせる対象を作り出すことで安心感を得ようとする「ダウンワード・コンパリゾン(下方比較)」や、本当は羨ましい対象を攻撃することで自身の感情を抑圧する「羨望(ベナイティック・エンヴィ)」の表れとも言えるでしょう。
- 同調圧力と「普通」からの逸脱への嫌悪: 特に日本社会においては、周囲と足並みを揃えることを重んじる傾向があります。「会社を辞めるなら、お世話になった上司や同僚に直接挨拶するのが筋だ」といった「常識」や「普通」から外れる行動に対して、強い嫌悪感を示す人もいます。退職代行の利用は、そうした「普通」のレールから外れた行為と見なされ、批判の対象となりやすいのです。
彼らの批判の根底には、「自分も本当は変わりたい、でも変われない」というジレンマや、「自分は正しい場所にいるはずだ」という現状肯定への強い欲求が隠れているのかもしれません。
日本の雇用文化と海外とのギャップ ~「辞めること」への根強い抵抗感~
こうした退職代行への否定的な見方には、日本特有の雇用文化や国民性が深く関わっているように感じます。
例えば、欧米の多くの国々では、転職はキャリアアップのための積極的な手段と捉えられ、個人のスキルや経験を市場価値として評価する文化が根付いています。解雇についても、日本ほどネガティブなイメージはなく、経営判断や個人の能力に応じて比較的ドライに行われることが少なくありません。
一方、日本では長らく「終身雇用」が理想とされ、「一つの会社に骨をうずめる」ことが美徳とされる風潮がありました。会社への帰属意識が強く、一度入社した会社を辞めることに対して、「裏切り者」「根性がない」「我慢が足りない」といったレッテルが貼られがちだったのです。こうした価値観は、時代とともに変化しつつあるとはいえ、未だに私たちの意識の根底に深く刻まれています。
また、「和を以て貴しとなす」という言葉に代表されるように、集団の調和を重んじ、自己主張を抑え、波風を立てずに安定を求める傾向も、日本人の特性として指摘されることがあります。このような文化背景の中で、「会社を辞める」という決断は、周囲との関係性を断ち切り、既存の安定を自ら手放す行為と見なされ、心理的なハードルが高くなりがちです。自己犠牲をいとわず会社に尽くすことが美徳とされ、個人の権利や感情が軽視されてきた側面も否定できません。
このような日本の特殊な土壌が、「退職は悪である」「自分の口から退職を言い出せないのは本人の責任だ」といった考え方を生み出し、退職代行サービスを利用する人々への不理解や批判に繋がっているのではないでしょうか。
退職代行業そのものが抱える課題と未来
ここまで、退職代行サービスを否定する側の心理や、その背景にある社会構造について考察してきました。しかし、目を向けるべきは利用者や批判者だけでなく、退職代行サービスを提供する「業者側」にもあると言えるでしょう。
退職代行というビジネスモデルは、その性質上、常に「グレーゾーン」との指摘がつきまといます。本来、退職に関する交渉や法的な手続きは弁護士の専門領域であり、弁護士資格を持たない業者がこれらの業務を行うことは「非弁行為」にあたる可能性があります。多くの業者は、あくまで「本人の退職の意思を伝える使者」という建付けで業務を行い、法的な問題に抵触しないよう細心の注意を払っていますが、その線引きは曖昧な部分も残ります。
また、この業界が比較的新しく、法整備や業界団体による自主規制が十分に追いついていないことも課題の一つです。
一時期は、高利益率に目をつけた個人や、十分な知識・経験を持たない事業者が安易に参入し、企業側とトラブルを起こしたり、利用者に対して不誠実な対応をしたりするケースも散見されました。社会倫理に欠ける一部の業者の存在が、業界全体のイメージを損ねてきた側面は否めません。
しかし、近年では状況も少しずつ変化してきています。新規業者が乱立した黎明期を経て、淘汰の波が訪れ、しっかりとした理念やコンプライアンス意識を持ち、質の高いサービスを提供する業者が徐々に生き残るフェーズに入りつつあるように感じます。労働組合が運営母体となる退職代行サービスや、弁護士と提携して法的なサポートも提供するサービスなど、より専門性を高めた業者も登場しています。
退職代行業が社会に必要とされる背景には、労働者が声を上げにくい、あるいは正当な権利を主張しづらいという、根深い労働問題が存在します。この業界が真に社会的な役割を果たしていくためには、業者自身の倫理観の向上と専門性の追求はもちろんのこと、法的な位置づけの明確化や、業界全体の健全な発展を促す仕組みづくりが不可欠です。
とはいえ、公明正大さを徹底しすぎれば、業態そのものが規制対象となる恐れがある――この懸念は常につきまといますが…
批判の裏にある本音と向き合い、より健全な社会へ
退職代行サービスを否定する人々の心理を紐解いていくと、立場や状況は異なれど、「自己正当化」「変化への恐れ」「現状肯定への執着」といった共通のキーワードが浮かび上がってきます。そして、その背景には、日本特有の雇用文化や国民性が複雑に絡み合っているのです。
しかし、重要なのは、退職代行サービスそのものの是非を問うこと以上に、なぜそのようなサービスが必要とされるのか、その背景にある社会構造や個人の苦悩に目を向けることです。私自身の経験からも、追い詰められた人が発するSOSのサインは、非常に微かで、見落とされがちであることを痛感しています。
退職代行を批判する言葉は、時として、発言者自身が抱える組織への不満や、キャリアへの不安、あるいは変化を恐れる心を映し出す鏡となっているのかもしれません。
「辞める自由」を安易に否定するのではなく、誰もが安心して働き、必要であれば円満に次のステップへ進むことができる社会とはどのようなものか。そして、追い詰められた人の声なき声に、いかに耳を傾けることができるのか。退職代行サービスの存在は、私たち一人ひとりに、そして企業組織のあり方に対して、重い問いを投げかけていると言えるでしょう。
その批判、本当に他人事ですか? 一度立ち止まって考えてみることで、見えてくるものがあるかもしれません。