張り合いのない日々を過ごす中で、ふと過去を思い出すことがある。ブラック企業で身につけた「パッシブスタンダード」という処世術。あのときの自分にとって必要だった武器は、今の自分にとって、もう必要ないのかもしれない。
最近、ふと「張り合いがないなぁ」と感じることが多くなった。
それはいつも、ある特定の瞬間に訪れる。たとえば、誰かの言葉の端に、ふとした表情の奥に、「微かな悪意」や「見下し」の気配を感じたとき。その気配が、かつて毎日のように感じていた“戦場”の空気を、遠い記憶の中から引きずり出してくる。
あの頃の自分なら、すぐにそれをキャッチして、反射的に構えていた。けれど今は、心のどこかで「反応する必要がない」と思っている自分がいて、そこでようやく気づく。
——ああ、今はもう張り合っていないのだ、と。
ブラック企業に勤めていた頃、私はまるで「人の隠れた悪意を栄養にして生きている」ような感覚で日々を過ごしていた。自分ではそれを「パッシブスタンダード」と名付けていた。
あえて受け身でいることで、相手の本性を引き出す。自分に都合よく接してくる人、陰で見下してくる人、モラルのない人。そういった人たちを観察し、静かに自分の人間関係から排除していく——それが私の基本スタンスだった。
社内では、パワハラ・モラハラ全開の男が、Facebookでは“良き父親”ぶりを余すことなく発信していたり、表面上はモラリストを気取る女性が、実はその男と不倫関係にあったりと、いわば「表」と「裏」が交錯する光景が日常だった。
特にその手の女性社員があまりに多くて、一時期は本気で女性不信に陥りかけたこともあった。けれど今、少し距離を置いて振り返ってみると、それは決して特殊な環境ではなかったと思える。
今思えば、むしろあれは社会の縮図だったのだと思う。ブラック企業という異常な環境が、ただ社会の裏側を“圧縮表示”していただけで、何も特別なものではなかった。
一方で、そんな環境だからこそ得られたものもあった。異常なスピードで回るプロジェクト。責任とプレッシャーが常にのしかかる中での意思決定。社会の裏側と、企業の内側と、人間の本音。普通に働いていたら一生見えなかったであろう景色を、私はたくさん見た。
もちろん、その代償として心も体も壊した。貴重な時間を、どこか無駄にしてしまったような感覚もある。
でも、それが「まったくの無駄だった」と言い切れるほど単純な話ではない。私の中には今でも、その時に培われた勘や、人を見る目、そして「張り合い」という言葉に含まれる戦う姿勢が、確かに残っている。
今はそれを使う必要がない。だから、勘も鈍ってきている。でも、もう使わなくていいなら、それでいいと思っている。
それでも時々、「張り合いがない」と感じてしまうのは、あの頃の“サバイバル”が、まだどこかで自分の一部として息づいているからなのかもしれない。