夏のオレンジに溶けて

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夏休みのある日、僕はちょっとした用事があって、自分が通う中学校を訪れた。十分程で用事を済ませてから教室を出ると、廊下に見知らぬ女の子が立っていた。

彼女は僕に気づいてこちらに振り向くと、優しい笑顔を浮かべながらこう言った。

「ちょうどよかった。ねぇ君、私に校舎を案内してくれない?」

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その子は、背は僕より少し低いくらいで、長いストレートの髪が胸まで伸びていた。目はちょっと大人びた切れ長で、肌は色白でとても透明感があった。僕はひと目で、今まで見たどんな女の子よりも可愛いと思った。いや、綺麗だと思った。白いワンピースに麦わら帽子がよく似合っていた。僕は少し緊張しながらも、案内役を引き受けた。

「もちろん、どこから見たい?」と尋ねると、彼女は微笑みながら答えた。

「まずは教室からお願い」

一通り校舎を案内して歩きながら、彼女は時折立ち止まり、興味深げに教室や廊下を見回していた。僕も彼女と話すうちに緊張が解け、次第に楽しくなってきた。教室の窓から見える景色や、図書館の静かな雰囲気についても話し合った。

「ここ、すごく落ち着くね」彼女は図書館の一角でそう言い、僕も同意した。

最後に彼女が屋上に行きたいと言い出した。僕は少し驚いて、「立ち入り禁止だから駄目だよ」と言ったけれど、彼女はどうしても行ってみたいと言って聞かなかった。しぶしぶ案内すると、どういうわけか、屋上への扉がその日に限って開いていた。

「空が高い!気持ちいいね。わたし何だかこの学校気に入っちゃった!」

それは、夏らしくないどんよりと曇った日が連日続いていたのが嘘のように、鮮やかな青空だった。正に絵に描いたような青空だ。風に飛ばされないように、彼女は麦わら帽子を右手で抑えながら、まぶしそうに空を見上げていた。僕はその姿を時が止まったかのようにただじっと見つめていた。

校門を出て、別れの挨拶をしようと思った時に、彼女が言った。

「そうだ、この近くに海があるんでしょ。もしよければ案内して欲しいな」

その海は、お世辞にも綺麗だとは言えないものだった。いつだったか、沖縄に住んでいる親戚のおじさんが遊びに来て、一緒に海に行った時に「これはいったい何だ?まさか海じゃないよね。」と冗談で言った程だ。その程度の海なのだ。けれど僕はそのことをあえて口にせずに、「いいよ、行こうよ」と返事をした。

海へは歩いて十分程で到着した。二人で海岸を歩きながら、彼女は僕に色々な話をしてくれた。例えば、前の学校で、すごく仲良しの友達がいて、その子と別れる時にわんわん泣いたことや、学校の近くにここと同じような海があって、落ち込んだ時にはいつもその海に行って夕日を眺めていたことなど…。とにかく彼女は、僕が昔からの友人であるかのように、屈託のない笑顔で話し続けた。

「君の話を聞いてると、なんだか自分もその場にいたような気がするよ」

「そう?それなら良かった。君って本当に優しいんだね」彼女は微笑みながらそう言った。

彼女の無邪気な笑顔に、いつしか僕も自然と笑顔になっていた。

海岸の風が僕たちの間を吹き抜け、彼女の髪が柔らかく揺れた。あたりには、静かな波音だけが響いていた。

「海に沈む夕日って見たことある?」

彼女の不意な質問に、僕は首を左右に振った。

「じゃあ、見ようよ!夕方になったらもう一度ここに来ようよ。ね!」

僕には断る理由などひとつも思いつかなかった。たとえ思いついたとしても、恐らく口に出すことは決して無かったと思う。

お互い一度自宅に帰ってから、夕方になる頃に、再び海で会った。彼女は白いシャツに青いチェックのスカートに着替えていた。麦わら帽子は自宅に置いてきたらしく、時折、長い黒髪が海風に強くなびいていた。

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「わぁー、同じオレンジ色だ!よかった…」

夕日を眺めながら彼女は嬉しそうに言った。けれど、それ以上は何も話さなかった。淡い朱色に染まった彼女の横顔が、この世に存在するどんなものより美しく思えた。

暫くして、夕日が海に完全に沈んでしまうと、彼女は寂しそうに、「じゃあ、そろそろ帰ろうか」と言った。

別れ際に、彼女は「今日はありがとう。また今度ね」と笑顔で言った。彼女が去っていく後ろ姿をじっと見つめながら、僕は心の中でつぶやいた。

「完璧だ。今日は完璧だった…」

夏休みが終わり、学校が始まってから、彼女を廊下で何度か見かけたが、まるで一言も話したことのない赤の他人のように僕らはすれ違った。僕は何度か振り向いてみたが、彼女と視線が合うことはその後一度も無かった。けれど、不思議とそれを少しも悲しい事とは思わなかった。

そう、あれは確かに恋だった。そしてその恋は、完璧だった。

完璧な恋は、あの夏の日のオレンジ色に溶けて消えたんだ…

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