光を求めて〜 見栄と惰性を越えた先へ

明るいオフィス街を堂々と颯爽と歩く男性

今から14年前に、ごく一部のマイミク(mixi内のフレンド)だけに一時的に公開していた日記です。大学卒業から社会人8年目くらいまで、ブラック企業での苦悩や葛藤を中心に綴った、いわば私の「自伝」のようなもの。

先日、別の記事で「パッシブスタンダード(自分で作った造語)」について書いた際、ふとこの日記の存在を思い出しました。非公開のまま眠らせておくのはなんだかもったいないので、供養のためにも公開しようと思います。

当時の青臭さも残っていますが、偽りのない、熱い思いを込めた記録です。ぜひ、当時の私に寄り添うような気持ちで読んでいただけたら嬉しいです。


「どうやら君は異動が確定らしいよ…」

他部署の、仕事でよく関わっていた人が親切心から教えてくれた裏情報だった。その情報を耳にした瞬間、俺は無意識のうちに入社してからの6年半を振り返っていた。心の準備が必要だと直感したのかもしれない。会社に入ってから、一方的な異動を言い渡されるのは二度目になるはずだった。結局、その情報は間違いで、俺は異動対象ではなかったのだが、自分をごまかし続けてきたこの6年半を振り返るには、まさに絶好のタイミングだったと思う。

この際だから、就職活動から今までの社会人生活を文章として残しておこう。そして、これを機に俺は変わりたい。いや、あの頃の自分を取り戻したい。自信に満ち溢れていた、あの頃の自分を…。

見栄という名の重圧

当時、世間に一大ムーブメントを巻き起こしていた、人気絶頂のゲーム制作会社があった。応募者1000人弱に対し、一次選考を通過できるのは一桁という狭き門。子供の頃からゲームプランナー(シナリオやシステムを考える仕事)になって、世界中の子供たちを感動させるのが夢だった俺は、一次選考で提出する企画書を心底楽しんで書き上げた。

合格通知を手に喜ぶ男性

一次選考通過の知らせを受けた時は、飛び上がって喜んだ。夢の実現が、もう手の届くところまで来ていると思ったのだ。ところが、「どうせ一次で落ちるだろう」と高を括っていた両親が、突然猛反対してきた。就職しても先が見えない、ゲーム会社は世間体が悪いと、全く聞く耳を持たなかった。

結局、俺は二次選考を受けることを断念せざるを得なかった。当たり前のことだが、平凡な学生でしかなかった当時の俺には、大人のしがらみから生まれる得体の知れない重圧を跳ね退けるだけの説得力も経験値も持ち合わせていなかった。

後から考えると、大学受験の時も同じだった。ある大学の芸術学部デザイン学科に合格した時、建築デザイナーや環境デザイナーになった自分を想像して、ちょっぴりほくそ笑んでいた。これもまた、「どうせデッサンや実技で落ちるだろう」と高を括っていた両親が、合格通知が届いた後に突然猛反発。「デザイナーなんて一生食べていける職業じゃないし、世間体が悪い」と、全く聞く耳を持たなかったのだ。最終的に、当時9割以上が就職できるとされていた経営学部に入学せざるを得なかった。

結局、俺は「親の見栄」という名の重圧に二度も押しつぶされ、無難な人生を歩むこととなった。

根拠のない自信からの覚醒

ある流通系の企業に就職を決めた俺は、家電製品売場の店員として働くことになった。毎日深夜までクタクタになるまで働いた。年末年始も当たり前に売り場に立った。「なぜこんなに社会的地位の低い職種を選んでしまったのか」という生意気な思いを抱きながらではあったけれど、それなりに仕事にやりがいを見出すことはできていた。

自分で言うのも何だが、俺は客観的な視点を研ぎ澄まし、誰よりも顧客ニーズに合った商品ラインナップで売場を演出するアビリティが最初から備わっていた。子供の頃から、他人が喜ぶことを考えるのが好きだったし、誰より得意だったからだ。そんな俺を、メーカーの営業担当者たちは皆可愛がってくれた。

おじさんバイヤーよりも自分の方が市場のトレンドや顧客のニーズを掴んでいるという、根拠のない自信があった俺は、入社2年目の春、バイヤーに内緒で自分が考えたオリジナルパッケージの商品アイデアをメーカーの営業に持ちかけた。なんと、それを商品化してもらうことに成功したのだ。

俺はその商品を大量に仕入れた。たしか、通常1回で発注する量の10倍はあったと思う。当然、上司は激怒した。「こんなに売れるはずがないから今すぐ返品しなさい」と説得されたが、俺は絶対に譲らなかった。

俺はそのオリジナルパッケージの商品をレジの近くに山積みし、徹底的に売って売って売りまくった。自らエンドレステープに商品の魅力を吹き込み、ラジカセにセットして一日中流した。レジ打ちのおばさま方は、一日中俺の声を聞かされる羽目になったが、幸い俺はおばさま方に絶大な人気があったので問題は起きなかった。なぜなら、店長にいじめ抜かれていたおばさま達を見かねた俺が、普段から陰で色々とフォローしていたからだ。そういうところは、何となく今と変わらない。

上司の心配をよそに、商品は飛ぶように売れた。粗利率50%を誇るその商品は、1000アイテム以上ある商品カテゴリにおいて、ダントツの売上と莫大な粗利を稼ぎ出した。万年赤字だった担当の売り場は、その月から黒字に転じた。商品は一都三県の50店舗で売られる定番商品になって、その後も売れ続けた。

もうひとつ、大きな成功体験がある。サイクロンクリーナーは今や常識だが、当時は価格が高すぎて誰も関心を持たなかった。しかし、俺はサイクロンが絶対流行ると踏んでいた。ダイソンのクリーナーが海外で売れているのはよく知っていたし、「たかが紙のパックを1000円前後で販売し、メーカーがぼろ儲けする」という古い収益構造は、いつか必ず破綻すると思っていたからだ。

掃除機を案内する男性

1万円前後の安いクリーナーしか売れないとされていた千葉の田舎店舗で、俺はあり得ないくらい広いサイクロンクリーナー売場を作った。ホームセンターで買ってきた絨毯を敷き、実際に顧客が実機でその使い勝手と吸引力を試すことができるようにしたのだ。今でこそ当たり前にどこの店でもやっているが、当時は画期的だった。

その頃、1万〜2万円前後のクラスを大幅にカットし、3万円以上のハイグレードクラスのサイクロンクリーナーを増やした。ここでも上司は「性能が良くても売価が高すぎて売れない」「在庫金利が…」とチクチクと俺を責めたが、結果は俺の予想が見事に的中し、昨年比で80〜90%を維持するのがやっとでジリ貧だったクリーナーの売上が、昨年比120%を軽く超えた。

後に、メーカーの営業担当者が「売上がアップしたことで会社から表彰された」と嬉しそうに教えてくれたのを、今でも覚えている。それに引き換え俺は、上司がすこぶるセコい奴で、「全て私が指示してやらせたことです」と店長に報告して手柄を横取りされたのだった。まあ、そういう残念な人というのはどこにでもいるということを、今の会社に入社して再度思い知らされることになるのだけれども…。

そんなこんなで、その頃は「自分には顧客ニーズをつかむセンスがある」と、自分を少しも疑っていなかった。ちょうどその頃、趣味でやっていたWEBサイト制作が仕事になるのではないかと思い始めていた。

新たな夢の扉

パソコンでウェブサイトを制作する男性

あるテレビ番組をフィーチャーしたそのWEBサイトは、瞬く間に1日2万ヒットを超えるマンモスサイトに成長した。YAHOO!でお勧めサイトとして紹介されたこともある。今考えると、凄いことだ。最初は一日に5ヒットしただけで嬉しかった。けれど、人気のあるサイトは一日に何百ヒットもしている。どうやったらこの差が埋まるのか。毎日見たいサイトになるにはどうしたら良いのか、ということを毎日真剣に考えていた。

「毎日なんとなく見るものってなんだろう」と考えて出た結果は、案外単純なものだった。トップページに今日の占い、今日は何の日、今日の格言、今日の天気と気温などを載せたのだ。今でこそ、そんなことは自分のブログにクリック一つで実装できてしまうけれど、当時はそう簡単ではなかったし、ブログという便利なシステムがまだ世の中に浸透していなかった頃だ。これで情報がいつも更新されているというイメージが付き、リピーターが増えた。

次に、テレビ番組に対する感想を毎週載せた。独自の感性から生まれる意見でありながら、客観的に見て誰もが納得し、深く共感できる文章を意識して書いていた。個人的な日記も毎日書いた。様々なアイデアを試行錯誤している内に、常連と言われる人たちが増えていき、その人たちが今でいうコミュニティみたいなものを形成し始めた。

その動きはどんどん加速し、最終的には「大好きなWEBサイトを利用者たちで健全に保とう」とする自衛組織のようなものが、勝手に出来上がった。当時、同じジャンルのWEBサイトがいくつか存在したが、掲示板は今でいう炎上状態なサイトがほとんどだった。我がサイトは自衛組織のおかげで、まれに見る優良サイトとしてその名を轟かせた。実は、番組の出演者や関係者からも何度かメールを戴いたりした。

一大決心と確信

これからはインターネットの時代だと確信していた。俺がPCを買ってパソコン通信をしていた時からそんなに経っていないのに、世の中にはインターネットがこれほど浸透しているのだから、インターネットで集客したり、ものが売れたりする時代が必ず来ると思った。そして、それに関わる仕事ができたら、どれほど毎日が刺激的で楽しいだろうとも思った。

そして俺は一大決心し、当時一部上場したばかりで勢いがついていた会社を辞めた。両親には一切相談しなかった。今度こそ、自分の意志で未来を切り開きたいと思ったからだ。それを知った両親は最初は激怒したが、学生の頃に親の見栄で好きなことをさせなかった負い目があるのか、あまりしつこくは言ってこなかった。

ウェブサイトをプレゼンする男性

俺はすぐにWEB制作とプロデュースを学ぶために専門学校へ入学した。そこから1年半は、とにかく毎日が楽しかった。やはり、好きなことを仕事にするということは素敵なことだ。俺はそれを手に入れるため、寝る間を惜しんで勉強した。そのおかげか、学校内で実際にクライアントを招いてのプレゼン大会で良い成績を収めた。

その際に俺がプレゼンしたWEBサイトのコンセプトは、有名なメーカーが以前に採用したものにとても良く似ていると、講師やクライアントから随分と褒められた。やはり俺には才能がある。その時、根拠のない自信は確信に変わった。

そして今度こそ、失敗しない。失敗などするはずがないと思いながら臨んだ人生二度目の就職活動だったが、そこには常識では考えられないトラップが仕掛けられていた。ここから、俗にいう俺の転落の人生が始まった。

ブービートラップ

WEB制作会社にいくつか内定をもらった。しかし、ある程度の実績を残している会社ばかりではあったが、どれも規模が小さく、将来安泰とは言い難かった。その安定志向に思わぬ落とし穴があった。

一部上場会社。入社1年で月収75万の人がいる。受注に応じて歩合も付く。未経験でもやる気があればWEBプロデューサーの仕事も任せてもらえる。新サービスも手掛けるチャンスがある。スケールメリットもある。あまりに条件が良すぎて、書類選考で落とされそうだと思った。しかし、すでに他社で内定ももらっているし、「最後にちょっとチャレンジしてみるか」と思ったのが運の尽きだった。

なんと、その会社からあっさりと内定が出たのだ。俺はちょっと有頂天になった。「こんなに簡単なら、もっと一流の会社にもチャレンジすればよかった」と思った。そして、他の制作会社の内定を全て断って、今の会社に就職することを決めた。今思えば、本当に浅はかだったと思う。

電話で話す男性

そして、入社式直前に悪魔の電話がかかってくる。

「WEB制作部署が無くなってしまったので、事務機を販売して戴く事になると思いますけれどいいですか?」

人の人生を左右する事柄を電話で済まそうとする会社の姿勢にまず驚き、そして少しも悪びれることなく、むしろ人の動揺を楽しむかのように語る人事部の女性に、俺は怒りと言うよりも恐怖を覚えた。人事部は会社の顔と言うが、俺はその人が発する言葉から、自分が人生の選択肢をまた誤ったのだと悟った。

しかし、本当に誤ったのは更にこの後だ。あと半年専門学校で知識を蓄え、就職活動に再チャレンジする道もあった。けれど俺は、一旦就職し、仕事をしながら独学で勉強を続け、チャンスを窺うという選択肢を選んだ。「どんな会社でもそこそこやっていける自信があったし、もっと業界を研究してからでも遅くはない」と思ったからだ。しかし、この甘い考えはすぐに打ち砕かれることになる。

不良グループ

配属前の研修で、俺は常に「こいつらには負けない。負けるはずがない」ということを考えていた。通常、配属されて1ヶ月は先輩営業マンに同行させてもらって現場の感覚を養うのだが、初めて同行させてもらった上司の営業を見て、すぐに自分でやったほうが効率が良いと思った。そして、周りの強いとされていた営業マンにこっそり現場での営業をボイスレコーダーに録音してもらい、それを毎晩、リピート再生して営業の流れと応酬話法を自分の頭に叩き込んだ。

配属2週間目で単独営業を始め、初月で3件の受注をとった。3件と言うと少ないと思うかもしれないが、メーカー標準価格で150万円以上する商品を、配属1ヶ月も経たない新人自らの営業で3件受注したのだから、自分でもすごいと思う。それが証拠に、現場の責任者にすぐに認められ、2ヶ月目に昇格もあると言われた。

しかし、冷静になって周りを見渡せば、一緒に配属された新人5人中、3人はすでに出社しなくなっていた。いわゆる「飛ぶ」といわれる現象で、ある日忽然と会社に来なくなるのだ。今までアルバイトだってそんな人を見たことがなかったが、社内では常識だった。それはそうだ。俺が無我夢中で気付かないふりをしていただけで、同期たちは悲鳴を上げていたのだ。

まずアポイントが入らないと、夜中の1時2時まで電話をかけさせられる。その時間帯は通常の会社には誰も居ないので、カラオケボックスやスナック、キャバクラ、風俗などにかける。アポが入らない罰として、手と受話器をガムテープでグルグル巻きにされたり、タバスコ一本入りのカップラーメンを一気食いさせられたり、殺虫剤を頭に吹きかけられたり、社訓を人通りが多い大通りで1時間叫び続けろと言われたりした。まるで不良グループの一員になったような感覚だった。

モラルなど意識したこともない集団。顧客の都合など二の次で、とにかく物を売りつけて売上が伸びればそれでいい。毎日少しずつ心を捨て去っていくような感覚。心が錆ついていくのだ。必死にその錆を振り落とそうとするけれど、一旦ついてしまった錆はそう簡単には剥がれ落ちてはくれない。逆にどんどんとその錆は広がっていく。

配属2ヶ月目の1発目のアポで、駅からタクシーで20分以上かかる千葉の山の上にある小さな工事会社へ訪問した。しかし、営業開始1分で受注が難しいことを知る。なぜなら、その人は元うちの会社の社員だったからだ。いじめ抜かれて1ヶ月で退社したその人が、単純な仕返しのつもりで、アポを入れ、来社を許可したからだった。

今でもそうだが、俺の運の悪さはやはり筋金入りだと自分を呪った。会社の営業スタイルがどれだけ業務の妨げになるかということをくどくどと説教された上に、「事務機の導入を考えているのは事実だが、お宅の会社から導入する気などさらさらない」と言われた。俯いて「すみません」とひたすら謝るしかなかった。

ただ、その人は、配属してから間もない新人が、利益を度外視して、赤字覚悟の受注が許されることも知っていた。だから悪びれもせず、「新人価格で売ってくれるなら考えてもいい」と言った。卑怯だが、会社への恨みが強かったのだろう。それくらいして当然だという雰囲気だった。

俺は意地になった。定価で100万する機械で原価が60万前後。上司にその場で業務連絡を入れて、原価スレスレで販売する許可を貰って提案したが、鼻で笑われた。オプションを付けて、価格は据え置きでも首を縦に振らない。ならばいくらなら契約してくれるのかと聞くと、なんと10万円だという。

相手は真剣だった。暗い過去をそれで帳消しにしたいという悲痛な思いがひしひしと伝わってきた。そして俺は無謀にも上司に交渉する。オプションを全てはずして、用紙やトナーを無料で出すのがセオリーだったが、有料にして将来収益を確保するので、10万円で売らせてくれと頼み込んだ。上司はしぶしぶ許可してくれた。

なぜそこまで熱く頑張れたのだろうかと思うけれど、今考えれば、それは相手への謝罪の念と、同時に自分のしていることは間違っていないと思い込みたかったんだと思う。契約書に印鑑を押した後、その人は最後にボソッと「ごめんね」と言った。その言葉に少し救われた気がした。

会社を後にして業務連絡を入れると、上司は電話口で怒鳴りつけた。「おまえは馬鹿か!安売りしやがって。お前がいると赤字になってみんなが迷惑するんだよ。お前みたいなやつに給料を払えるか!ボケっ!」

暗い山道を歩く男性

電話を切って、1メートル先が見えないくらいの真っ暗な山道をトボトボと歩いた。涙が溢れて止まらなかった。単純な悔しさもあったが、自分が一生懸命やっている仕事が他人を不幸にしているとしか思えなかったからだ。そしてこの時、必死に守ろうと思っていたものが、心の中で一気に壊れていくのがわかった。

次の日から、俺はがむしゃらに仕事をするのをやめた。2ヶ月後、「いつ辞めようか」と毎日思い悩んでいた頃、東北の地域販社へ営業部全員がそっくり異動という話が出た。「騙された」と思った。最初から東北へ配属するつもりだったのだ。

ちょうどその頃、父親が手術をして入院していたので、ものすごい形相で睨めつける責任者に「両親を置いて東北には行けません。こちらへ残ります」ときっぱり言った。「おまえは営業が向いているから将来絶対後悔する」「逃げるのか腰ぬけ!」などと散々嫌味を言われたが、その責任者より社会人経験が長い俺は、自分の適性くらいは自分で分かっている。そして、同じように東北へ行かないと意志決定した先輩社員の計らいで、俺は東京に残り、ユーザーへ二次商材を売る部隊へ異動した。

赤字スレスレ社員からの再覚醒

二次営業部隊に配属されて最初の訪問で、俺は会社の罪深さを再度痛感することになる。人の良さそうな社長は、俺を笑顔で迎えてくれた。その会社には、段ボールに入ったままの事務機が倉庫に放置されていた。何でも、事務機を契約したら、おまけでもう一台付いてきたというのだ。ダンボールを目の前にして、目を覆いたくなった。

からくりはこうだ。提案時に定価以上の価格で提示する。何も知らず、相手を信じている人の良い社長は、それに気付かない。リースという特殊な契約形態で、月額のコストを提示するので、総額が定価を大幅に超えてしまっていても、大抵は気付かないのだ。商品の定価を超える契約はリース会社が許可しないので、定価と売価をある程度合わせるために、もう一台、型落ちで原価の安い小型機をおまけで付けるという手法なのだ。まさに「ぼったくり商法」だ。

どう考えても法律に触れるその手法は、営業部では営業の強い優秀な社員しかできない荒業として語り継がれていて、「プラスワン」とか「ハモッて2台」などと言われていた。またもや、会社によって酷い目に遭っている人に最初の訪問で当たってしまう自分の運の悪さに、とても苛立った。

それから俺は、これ以上心が錆つかないように、自分を分厚い殻でコーティングすることを覚えた。相変わらず顧客都合など二の次で、とにかく受注をしてこいと息巻く責任者。けれど俺は断固として、純粋に顧客のメリットになる受注しか取らず、しかも受注した後は徹底的にその効果を上げるために時間を割いた。ここから、俺の「赤字スレスレ社員」生活がはじまった。

例えば、会社のロゴマークを変えたいと相談されたら、そのデザインを自らやって、その代わりにそのロゴを印刷した名刺を受注した。WEBサイトを受注するときは、Flash動画も自ら作ったし、陰でSEOをやっていたし、更新もやっていた。そのため、休みの日はほぼその作業で一日が終わる。

他の人が受注してくるWEBサイトの案件は、「とにかく売上を上げるために作りましょう」「WEBサイトはあって当たり前の時代だから作りましょう」くらいのゴリ押しで受注してくる。しかし、顧客自身がその必要性とイメージを全く持ち合わせていないので、一向に制作が進まず、これもリースという契約形態を取っているので、完成する前に課金がスタートしてしまい、実態のないものに顧客は何年もお金を払い続けることになっている案件がほとんどだった。あとから聞いた話だが、受注したほとんどのWEBサイトは結局制作せずに、何億円というコストを割いて、顧客との契約を解除したそうだ。ちなみに、俺が受注したWEBサイトは全案件、完了までしっかり追い込んだ。

今でもこの風潮は当たり前に会社全体に蔓延していて、新商材として生み出されるもののほとんどが、実態のないスリープなコンテンツやサービスなのだ。企画部に居ても、責任者を含めてこれに対して真剣にNOという人が誰もいない。クレームが多発して面倒なことになって初めて、どうにかしないといけないという感覚になる場合がほとんどだ。今でこそ、少しだけ実態のあるサービスにしなくてはならないという風潮が芽生えてきてはいるが、会社というのはそう簡単に変われない。おそらく10年後もこの風潮は払拭できていないだろうと俺は予測している。

受注数が少ない俺は万年、赤字スレスレの社員で、毎日上司に怒られていたが、受注に対しての真摯な態度だけを重視するポリシーは一切変えなかった。そういう状況でも営業を続けられたのは、ひとえに顧客が俺を信頼してくれたからだ。「この人に言えば何とかしてくれる」という存在になれていたから、逆にその人たちのために頑張ろうという気持ちになれた。当時は正直、会社や同僚が支えてくれていたのではなく、顧客が俺を支えてくれていた。たぶん、そういう感覚で仕事をしていたのは、あの部署で俺だけだったと思う。

表彰されている男性

徐々に顧客の方から「あれが欲しい」「これを何とかしてほしい」と言われるようになり、自然と受注が増えていった。名刺、WEBサイト、データベース、電話回線、インターネット回線、携帯電話、空気清浄機、事務機、パソコン、サーバー、訪問サポート、SEOなど…幸い、扱える商材は山ほどあった。結局、体調を崩してやむを得ず異動することになる直前では、粗利益と売上で月間トップになって表彰されるまでになった。

コルセットマン

「アポ禁プロジェクト」と銘打たれたその業務は、過酷さを極めた。営業部がしつこく電話でアプローチを繰り返し、顧客からクレームが入った場合、これをアポ禁リストに加え、その顧客には今後一切アプローチしてはならないという社内ルールがあった。しかし当然、顧客は有限なので、これを繰り返しているとアプローチできる顧客が徐々に減ってしまう。

そこで考えられたのが、顧客とのコミュニケーション能力に長けた二次営業部隊に、アポ禁リストの顧客にアポなしで訪問して謝罪し、再度営業提案ができるように関係を修復するという施策だった。アポ禁の顧客にアポなしで訪問するという馬鹿げた施策を大真面目にできるのは、おそらく日本全国探してもうちの会社くらいなものだろう。

真夏の炎天下の中、駅から訪問先まで往復で1時間ほど歩くなどざらで、せっかく会社にたどり着いても、不在だったり、怒鳴られて玄関から追い出されたりした。あまりに怪しい行為を不審に思った顧客から後をつけられたりもした。

そんな中、無理なダイエットと過酷な業務が、俺の身体を少しずつ蝕んでいた。左手にしびれを感じていたが、日々の業務に追われ、気付かないふりをしていたのだが…ある朝、目覚めと同時に、首に激痛が走る。あまりの痛さに起き上がれない。左手のしびれも酷い。自分でも何が起こったのかわからなかった。

コルセットを首にはめている男性

この日から2ヶ月間、俺は会社を休んだ。3つの病院を回ったが、どこも原因不明と言われる。4つ目でMRIを撮って、ようやく原因がわかった。もともと首の骨が多少変形して成長していて、急激な身体への負荷で、骨と神経が接触してしまい、炎症を起こしているということだった。それから半年近く、俺のトレードマークは首にはめたコルセットだった。社内でもちょっとした有名人になった。

再生と惰性

コルセットをしながら営業はきついということで、内勤へ異動させて欲しいと願い出た。そして異動した先が「事業戦略部」という部署だった。常務直轄のその部署は、社内の問題を一つ残らずプロジェクト化して、改善していくという部署だった。面接した時は、とても自分に合っているのではないかと思ったが、実際に異動して割り振られた業務は、「ヘルプデスク」という電話窓口のオペレーター業務だった。

ここでも「ちょっと聞いていた話と違う」と思ったが、2ヶ月も休んでいたのでわがままは言えなかった。そこでは、社内のありとあらゆる問い合わせが舞い込んできた。時には、上司のセクハラやパワハラに悩み、泣きながら電話してきた女の子の相談にも乗った。「なぜか昔から女性に不平不満をぶつけられてストレス解消のはけ口になる」という特殊アビリティがあったので、向いているのかもしれないとちょっと思ったりもした。

そして俺は、そこで「ある人」に出会う。その人は、会社で唯一、尊敬していると言っても過言ではない人物だ。別に全てが完璧というわけではない。勤怠はすごく悪かったし、仕事がすこぶる出来るかと言えば別にそうでもないし、異性にモテるかと言えばそうでもない。けれど、僕が心の底の扉の向こうに封印して忘れてしまった物事を思い出させてくれる「鍵」を持った人だった。

その人も営業部に居た頃は、ある程度の悪行はやってきていたが、それをいつまでも悔いているのではなく、「二度と自分はそういうことはしない」という固い意志と、上層部に「会社が悪いところは悪い」と言える人だった。何事にも強いポリシーを持ちつつ、他人のこだわりを否定しない心の広さもあった。つまり、その人が俺にとって、昔の自分を取り戻すための最後の砦だったのだ。

しかし、その人はまもなくして異動してしまう。そこからの数年は、正直、人生で一番惰性で生きていた時期だと思う。将来の自分のあり方などをあえて考えず、ただ目の前の業務を効率よく回すことだけを考えていた。その人が異動してしまってからの俺は、身だしなみなども全く気にしないほど覇気がなかった。

その人に代わって責任者になった男との相性が悪すぎて、その生き方に拍車をかけた。正直、俺にとってその男には何一つ魅力に感じるものがなく、逆に同僚に対しての愛情のなさや、女や金にだらしない態度ばかりが目についてしまい、最終的には俺は露骨にその男を遠ざけるほど嫌いになった。女や金にだらしない男なら、うちの会社にはそれこそ溢れるほど居るけれど、一番嫌なのは、部下に対しての愛情が全くないということ(自分が気に入っている女性社員以外)。

数えきれないほどのエピソードの中で、一番その男の性格を顕著に表わしている出来事がある。ある時期、足が不自由な人が同部署に異動してきた。その人は面談の時から「ちょっとおかしい」と感じていたと言っていたが、とにかく全てが適当で、その場のテンションで物事を決めてしまう男なので、その人の明確な起用方法など深く考えていなかったのだろうと思う。

面接の時に言われたことと全く違うことをやらされて苦悩の毎日を送り、ついには辞めると言い出した。身体に障害を抱えているのだから、就職活動だって簡単じゃない。それこそ一大決心をして申し出たのだろう。しかし、その原因を作った張本人は、その人が退社面談を申し出ても、面倒くさそうにして時間と取ろうともせず、結局、どうしたらいいか分からずに俺に相談してきた。

怒り心頭な男性

最終的には、俺から何度も何度も促進をして、やっと時間をとってもらったが、「適当に3分で済まされた」とその人から苦笑いで報告されたときには、怒りで腹が煮えくりかえった。あんなに心の底から怒りがこみ上げたのは、今までの人生で数えるほどしかない。再就職が決まるまでは心配で何度も連絡を取って、飲みに行ったりした。結果的に、2ヶ月後に無事再就職を果たし、「心配をかけて本当に申し訳なかった」と謝ってくれた。本当は謝らなくてはいけないのはこちらの方なのに。その人とは今でも交流が続いている。

結局のところ、その男が悪いわけではないのかもしれない。「人に対する誠意のなさ」「飲み会の席だけの中身のない馴れ合い」「希薄な関係」。そういった関係がスタンダードだと思わせてしまっているこの会社が悪い。その男はこの会社しか知らないのだ。これが当たり前だと思っているのだ。仕方がない。しかもこれはきっと、自分が惰性で生きていることへの苛立ちと、尊敬していた人物とのギャップが入り混じってしまった結果なのであって、その男が特別魅力のない人という訳ではないのだろう。今ではそう思うことにしている。

もがきと絶望

惰性で生きている時に、俺は一度だけそこから抜け出そうと真剣にもがいたことがあった。陰で面接に何度か出向いていて、実のところ「是非来てほしい」と言われた企業が1社あった。暗い世界から抜け出すきっかけを手にした俺は、「その部署のシステム面を大幅に改善し、効率を上げ、オペレーターを楽にしてから辞めよう!」「俺がこの部署にいたことに意味を持たせるんだ!」そう思っていた。

しかし、その決意にも似た感情は、現状維持を強く望むオペレーターたちには伝わらず、むしろ邪魔だった。それくらい過酷な環境で働かせていたのだ。結局、その試みは最後まで空回りで終わってしまった。

デスクでうなだれる男性

その頃の自分は、自分自身が現状出来る範囲の中でしか思考を回せないことに常に苛立っていて、「昔はこんなんじゃなかった」と日々ただただ絶望していた。そこには、常に職場の雰囲気を健全に保つことに注力していた自分を完全に失っていたし、同僚に対しての不誠実な態度もおそらくあっただろうと思う。それくらい自分の無力さに打ちひしがれていたのだ。結局、俺は内定を断った。その後しばらくして、コールセンターが業務委託という形で社外に出されることが決まった。

200項目の罪滅ぼし

業務委託が正式に決まった頃、タイミング良く社内向けの募集記事のひとつに目がとまった。「コンテンツ企画推進室」という部署名で、携帯向けのオリジナルのWEBコンテンツやアプリを企画してCPに制作を依頼し、グループ会社の圧倒的な販売網とリアルアフィリエイトサービスを最大限に活用して販売していくというものだった。

責任者の女性は40歳でバブルど真ん中世代。リクルート出身で、ソニーエリクソンやサイバーエージェントとのコラボレーション企画などを多数手がけてきて、その筋では知らない人はいないという(自称)。オリジナルのWEBコンテンツやアプリ系の企画制作に携われるなんて、こんなチャンスは二度とないと思った。何度かその女性と業務内容についてメールでやり取りしたが、興味は高まる一方だった。今度こそ、惰性生活から抜け出すチャンスだと思った。そこで俺は異動を決心する。

しかし、残されたコールセンターのメンバーは全員、漠然とした不安と闘っていた。というのも、俺が嫌っていた男は案の定、明確な方向性や業務移管に伴う実務的な準備や手続きの一切を指示しなかった。というより、全く考えていなかった。こればかりは「考える能力がなかった」と言った方が正しいだろう。

夜中にデスクで仕事をする男性

コールセンターの実務から外れてしまっている俺が口を挟むことではないという思いもあったが、それよりも部下たちの不安を払拭することが大事だと思った俺は、業務移管に伴う実務工程を思いつく限り脳みそをフル回転させて洗い出し、リスト化した。200項目にも及ぶそのリストを一人で作り上げた。コールセンターで責任者としてやってほしいという上層部の打診を断り、自分だけわがままを通して異動を希望したことへの「罪滅ぼし」でもあった。

結果的に、不安感は少し払拭されたように見えた。それが証拠に、移管先への出張に際しても、同僚たちに旅行気分を味わうくらいの余裕が見えた。

バブルモンスターとの遭遇

そして、新しい部署での稼働がスタートした。しかし、ふたを開けてみたら、部署を立ち上げた上司がとんでもないモラハラ女で、ここからの1ヶ月はもう地獄の日々だった。朝のミーティングと称した愚痴タイムから一日がスタートする。過去の自慢話と、周りの人間がいかに自分の能力より劣っていて足を引っ張っていたかという類の話に、毎日たっぷり2時間が費やされた。そして、壮絶ないじめ。俺と一緒に配属された中途採用の男性は、一日2時間のお説教はデフォルトだった。つまり、一日4時間はまともな業務ができないのだ。

嫌味な説教をする女性

「目線をこっちに向けないで。気持ち悪いから」という類のセクハラ発言は日常茶飯事だった。隔離された事務所の中で、壮絶ないじめが毎日繰り返された。ある日、その女性が事務所の入口に塩を盛り、事務所の中にも塩をまき始めた。「何をしてるんですか?」と聞くと、「見て分かんないの?あんた達が陰気くさいから塩でお払いしてんのよ!」と言い放った。やはり、この人がどんなに優秀な人だろうと、一緒には仕事ができないと思った。

しかしこの女、驚いたことに他の部署の責任者に対しては、至る所で強烈な愛想を振りまいていたのだ。自分でも「社内営業は何より大事」と豪語していた。自分に対してメリットがある対象に対しては、どこまでも擦り寄っていき、猫なで声で相手が喜びそうな言葉をタイミング良く織り交ぜる。興味がない相手には、その人をどんなに傷つけようが一切関係なく、どこまでも酷いことができてしまう。しかも、そこには罪悪感のかけらも存在しない。

女の二重人格というのは、こうも露骨で気色が悪いものなのかと思い、そういう醜態を見る度に虫唾が走った。ついでに言っておくと、バブル世代だからなのか、池袋なんて田舎者が集まる場所で仕事をしたくないし、池袋に住んでいる俺に向かって、「こんな場所によく住めるわね?」というのが口癖だった。渋谷、銀座、六本木あたりが自分には合っていて、休みにそこへ一人で出かけてショッピングやお茶をすると気分が落ち着くのだそうだ。それこそがド田舎者(秋田の山奥出身)の発想だということを、おそらく彼女は一生気付かないのだろうと思う。

そして俺は、1ヶ月という短期間で軽いうつ状態に陥った。毎日、不眠と吐き気がおさまらなかったのだ。これには自分でも情けない思いでいっぱいだったが、あの空間を経験した人であれば、誰しもが仕方がないと言うだろう。結局、2ヶ月弱の稼働で、その上司以外の全員は体調不良を原因に休職を申し出た。

その後、その女の振る舞いは会社に問題視され、グループ会社全体にパワハラとセクハラを禁止する通達が流れる。しかし、女は懲りずに、後に採用された40歳台の中途採用の男性をいじめ抜き、「死ぬほど使えない」と役員連中にふれ回って、最終的には異動させている。

モラルハラスメント

結局、この会社にはそういう人が集まってくる。というより、そういう人が自然と最後まで残るのだ。自己愛が強く、罪悪感を持たない。普通の人なら罪悪感を持ってしまうような言葉や行動を平気で出来る。誰かから奪うことをいつも欲していて、内心の葛藤を自身で引き受けることが出来ず、外部に向ける。自身を守るために、他人を攻撃する必要を常に感じている。

これは自己愛、つまりナルシシズムが病的に拡大したもので、普通ならちょっと病的に映るものだが、この会社ではそれが文化に溶け込んでいるので誰も気がつかない。モラルハラスメントの加害者は、自身の「魅力」によって、被害者をまず惹きつけにかかる。これに長けている人が社内には多い。

嫌味、皮肉、口調、態度など、ひとつひとつを取ってみれば、とりたてて問題にするほどのことではないと思えるような些細なやり方によって、被害者の考えや行動を支配・コントロールしようとする。この段階では、加害者は被害者に罪悪感を、周囲には被害者が悪いと思わせようとする。被害者が自立しようとすると、中傷や罵倒などの精神的な暴力をふるい始める。

モラルハラスメントは、普通の人でもやってしまうことがあるものだが、普通の人はためらいや罪悪感を伴ってしまうところを、本物の加害者は「自身のほうが被害者だ」と思っているほどの感情の持ち主だ。そういう病的な人こそが居心地が良く、自然と残っていく文化があり、それが社風なのだ。

先月、営業部が我が部署の隣のスペースに移動してきた。そこでも責任者は担当者の些細なミスで、「泣かすぞ!こらっ!」「脳みそあんのかよ!おい!」などと怒鳴り散らしている。これに対して不適切だと提言するものは誰もいない。

自己愛が強く、自分が被害者であるという感情が強い人が多い証拠に、この会社は離婚率が驚くほど高い。社内の人は忙しさをその理由にあげるが、もっと忙しい会社など世の中に腐るほどある。実際、最初に就職した流通系の会社の方が断然忙しかったが、離婚したなどと言う話は、4年勤めていて1回くらいしか聞いたことがなかった。

お金を貸す男性

ついでに言ってしまうと、お金にルーズな人が驚くほど多い。俺はこの6年半の間に、なんと10人近くの人にお金を貸している。1人はやむを得ない事情で、むしろ自分から助けてあげたいと思って貸したので良いとして、あとの9人は、ほとんどがギャンブルや風俗でお金を無計画に使ってしまうのが原因だった。未回収金額はおそらく7万円くらいだろう。とにかく素行が悪く、モラルが低い人が多いのだ。

1ヶ月の休養後、拾ってもらった部署は、念願の企画部だった。実際は企画と言うよりも、キャリアとの調整をする本部機能というのがその実態だったが、それでもとてもありがたかった。ある意味、企画部署より重要な役割を担っているし、仕事の上では優秀な人が比較的多いという印象だ。けれど残念ながら、やっぱりモラルは低かったりする。不倫や浮気、酔った勢いでの一夜限りの関係などさまざまな裏話があり、しかもそれは入社1年ほどの社員も含めての話なので相当痛い。更には、誰に聞いたか知らないが、俺についての噂もあって、軽い人間不信に陥っている。もはや、この会社ではどこにいてもモラルは守られないのだ。

パッシブスタンダード

モラルの低さからくることとは言え、10人にお金を貸したのには、俺にも大いに原因がある。それは俺が「パッシブなコミュニケーション」を主体としていたからだ。この会社に入ってから顕著になったその姿勢は、言い方が悪いかもしれないが、その人がモラルに欠ける人かどうかを判断して仕分けるのには都合がよかった。

モラルの低い人や、生き方や考え方にポリシーがない人は、パッシブな人に対しては、自分の自尊心を満足させるために相手を馬鹿にしたり、利用しようとする。そういう人だとわかれば、すぐに距離を置くことができるからだ。端的に言えば、「肉を切らせて骨を断つ」ようなものだ。

けれど結論としては、パッシブでネガティブなコミュニケーションは、数少ない良い人を見つけ出せる反面、同時にスキあらば自分の自尊心を満足させるために相手を利用しようとする人も多く寄せ付けてしまう、もろ刃の剣だとわかった。所詮は、相手を篩にかけるような行為から生まれる人間関係の多くは希薄なものだということだ。

笑顔で空を見上げる男性

だから俺は、もっとアクティブでポジティブにならなくてはならない。「将来のことや人生や生き方などになんのポリシーもなく、ただ流されている人にはなりたくない」と強く思っていたはずなのに、涙を流しながら山道を下ったあの日から、俺は結局そういう方向へ押し流されてしまっている。最近は、流されている意識すら失いかけていた。

それをある出来事が思い出させてくれた。自分を必要以上に低く見ることに慣れてしまっている自分に気がついたのだ。卑屈でパッシブなコミュニケーションからは、もう何も生まれない。この環境から抜け出して、本来の自分を取り戻したい。


いかがでしたでしょうか。

最後に「この環境から抜け出したい」と語っていますが、実際にはこの後、約10年もの間、会社に居座ることになりました・・・笑