「本末転倒」な日常の罠。猫よけペットボトルから見る、手段と目的の逆転劇

猫除けペットボトルを指さして笑う猫

先日、実家の近くの路地を歩いていたら、とっくに絶滅していたと思っていたものに出会いました。 あまりの懐かしさに、思わずスマホを取り出し撮影してしまいました。

猫除けペットボトル

お判りだろうか?

そう、「猫除けのペットボトル」です。

もしかしたら平成後期世代には意味不明の代物かも知れませんね。 念のため説明しておくと、これは「水を入れたペットボトルを置いておくと、光の反射で猫が嫌がって寄り付かなくなる」というライフハックです。

当時は大流行して、町の至る所でこのペットボトルを見かけました。しかし、流行していた当時から私はこれを見るたびに思っていたことがあります。

本末転倒だな……」と。

目次

手段が目的を殺すとき

本末転倒(ほんまつてんとう)とは、本来の目的を見失い、手段のほうが大事になってしまったり、あるいは手段そのものが目的の足を引っ張ってしまったりする状態のことです。

恐らく「猫が寄り付かなくなる」ことの主たる目的は、単純に猫が嫌いというよりも、「猫による糞害や悪戯を防ぎ、庭や軒先を綺麗に保つこと」だろうと推測します。 しかし、現実はどうでしょうか。古びて苔むしたペットボトルという「人工的なゴミ」がズラリと並び、景観を確実に汚しているのです。

「庭を汚されたくない」という目的のために、自ら「汚いもの(ボトル)」を並べている。 まさに手段と目的の逆転です。

あれだけ賢い動きをする動物が、ただ地面に置かれたペットボトルを怖がるわけがない……という理屈が通じないのも不思議です。事実として、猫除けペットボトルは海外の有名な庭師がジョークで言ったことが拡散して日本にも広まったと言われています。つまり単なる大ぼらなのですが、大の大人がなぜ気づかないのでしょうか。

私は子供の頃からこの「本末転倒」に敏感で、その現象を見かけるたびに、解決しない謎が頭に蓄積されていく感覚を持っていました。 「なぜ、合理的に考えることができないのだろう?」と。

日常を観察していると、実はこの「本末転倒」が驚くほどたくさん転がっていることに気づきます。そして、その罠にはまっている人には一つの共通点が見えてきました。

それは、「理屈よりも、感情や気分を優先する人」ということです。 今回は、私が日常で感じた「これって本末転倒では?」という事例をいくつか紹介してみましょう。

1. 鳩よけの剣山:100%の確率で景観を壊す

鳩よけ剣山

猫除けペットボトルと非常によく似たものに、ベランダの手すりなどに設置する「鳩よけスパイク(剣山)」があります。 猫除けボトルと違って物理的な効果はありますが、これも見方によっては強烈な本末転倒です。

本来の目的は「ベランダを綺麗に保ちたい」から。 しかし、あのトゲトゲした剣山を設置した瞬間、建物の美観は損なわれます。しかも常に、です。

糞害は「掃除をすれば元に戻る(可逆的な)」汚れですが、剣山は設置している限り「常に景観を損なう(恒常的な)」汚れとも言えます。 「汚れるかもしれない可能性」を排除するために、「確実に見た目を悪くする手段」を選んでしまっているわけです。

もっとも、あの剣山を敷き詰めた手すりを見て「美しい」と感じる感性の持ち主なら話は別ですが……。

2. ポケモンGO:バスに乗って「冒険」する人々

バスの座席に座ってポケモンGOをプレイする男性

ゲームの世界にも本末転倒は潜んでいます。 例えば『ポケモンGO』。本来は「外に出て、歩いて、探索する」というプロセスを楽しむゲームです。

しかし、効率を求めるあまり、バスや電車に乗って距離を稼いだり、位置情報を操作したりする人がいます。 これはRPGで言えば、裏技を使って最初から「最強ステータス」で始めるようなもの。一番おいしい「成長の楽しみ」や「発見のワクワク」を自ら捨ててしまっています。

「楽しむ」ために始めたはずが、いつの間にか「効率よく進める(作業)」ことが目的化している。これも現代的な本末転倒の罠です。 彼らは楽しんでいるというより、何かの作業に従事しているように見えます。その先に何を求めているのか、自分でも良く分からなくなっているのではないでしょうか。

3. 同居人の「片付け」と「衛生」に見る矛盾

収納ボックスに大量に詰め込まれた雑貨

私の同居人が、まさに物事を感情で判断することが極めて多いタイプの人です。家の中でこの「本末転倒ムーブ」をよく目にするので紹介します。

片付けるために収納グッズを買う

「部屋を片付けたい」と思うと、同居人はまずそこら辺の段ボールや空き缶、空箱にガラクタをぶち込んでいきます。最悪の場合、新しい収納ボックスを買ってきます。

本来は「物を減らしてスッキリさせる」のが目的なのに、「収納という容器」が増えたことで部屋のスペースは狭くなり、そこに不用品が詰め込まれていくだけ。 「片付けるために、部屋を物(ボックス)で埋めている」ことに、本人は気づいていないのです。

環境のためのリサイクル:洗剤でピカピカに洗う矛盾

リサイクルに出す瓶やペットボトルを念入りに洗う場面でも同じです。水ですすぐ程度なら理解できますが、同居人は「その方が汚れが落ちるから」という理由で、毎回お湯を使って洗っています。つまり、そのたびに天然ガスを使い、二酸化炭素を排出しているわけです。さらに、油の付いた容器になると、今度は洗剤まで使ってしまう。

ここまでくると何が起きているのか——おそらく同居人は考えたことすらないでしょうが、環境負荷は「分別せずに捨てる」よりも高くなっています

「汚れたまま出すのはイヤ」という感情が、「環境を守る」という本来の目的を完全に上書きしてしまっている「本末転倒」の典型例です。

トイレの手洗いを避けて汚れを広げる

もう一つ、同居人に関して興味深い例があります。それがトイレでの手洗いです。同居人は「タンクの上の水はなんとなく汚い気がする」という理由から、そこで手を洗わず、わざわざドアを開けて洗面所まで行きます。実際にはタンクの上から出てくるのは普通の水道水であり、清潔です。

しかし同居人の中では、「トイレ空間にある水=汚い」という感情が理屈を上書きしてしまっているのでしょう。あるいは、タンクに溜まっている水がそのまま蛇口から出てくると誤解している可能性もあります。

私はこれに限っては本当に愚かだなと思います。

トイレの後の手は、確実に汚れています。まして同居人は「ウォシュレットの水も汚い」と考えて使わないタイプです。トイレットペーパーには肉眼では見えない無数の隙間があり、そのペーパー越しに汚れを拭き取っているのですから、細菌やウイルスが手に付着する可能性は当然あります。本来はそれを落とすために手を洗うわけです。

ところが同居人の場合、「手を洗うべき」という理屈よりも、「トイレの水が嫌だ」という感情のほうが優先されてしまうのです。

その結果、「汚れた手」でドアノブを触り、洗面所の電気をつけ、蛇口をひねる……。 つまり、「汚い気がする(幻想)」を避けるために、「実際に汚れた手で家中の接触箇所を汚染(現実)」しているのです。 衛生を保ちたいはずが、自らウイルスの感染ルートを拡大していることに気づいていません。

4. 政治に見る「手段の目的化」

少しスケールの大きな話をしましょう。最近何かと話題の国際問題や、国会でのやり取りについてです。

オールドメディアや野党議員の揚げ足取りが発端となり、外交問題へと発展する構図は過去にも繰り返し見られてきました。 国益を最大化することに重きを置くべきはずの議員が、国益そっちのけで、首相の人気を追い落すことだけを目的に執拗に失言を誘導する。 どんなに政治に無頓着な人が見ても、「こんなやりとりに何の意味があるのか?」と疑問に思うでしょう。

これまでは「野党はあれで仕事をしていることになっていた」のですが、最近は決定的に異なる点があります。 それは、国民全体の情報リテラシーが飛躍的に向上しているという事実です。

今の国民は、一部のメディアや議員の行動が、国益よりも政局を優先した「手段が目的化した政治行動」であることをすでに見抜いています。「政権を叩ける材料なら何でも利用する」という行動原理が透けて見えており、結果として国民の利益や安全保障が二の次になっていることにも、多くの人が気づいています。

かつてはメディアが問題を“作れば”世論が動く時代でしたが、今は国民自身が一次情報を確認し、文脈を読み取れる時代です。 表向きは外交問題や政策論争に見えても、その本質はただの政争——つまり、これもまた「本末転倒の極み」であると、多くの国民(野党の議員たち以外)は理解しているのではないでしょうか。

結論:理屈よりも「感情」が勝つとき

こうして並べてみると、本末転倒が起きる原因は一つです。 私たち人間は、理屈よりも「感情」や「気分」を優先させたとき、いとも簡単に目的を見失います。

考えてみれば、恋愛なんてその最たる例かも知れませんね。

手段にこだわりすぎていないか? 感情で判断して、逆効果なことをしていないか?

時々立ち止まって「本来の目的」を思い出してみることが、この滑稽で愛すべき「本末転倒」から抜け出す唯一の方法なのかもしれません。

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