観測者
村の近くを流れるチチェン川のほとりに、一人の男が腰掛けて釣り糸を垂らしていた。
彼の名はフラップ。遠目から見れば微動だにせず、ただひたすらに獲物が掛かるのを待っているかのように見えるが、実際には視線が忙しなく動いていた。乱れた茶色の髪が風になびき、二十代半ばの男の顔立ちは冷静さと集中力を示していた。
視線の先にはフォログラムディスプレイが浮かんでおり、複数のコンソールパネルが開閉を繰り返している。
「表題をどうするかだな」フラップは手を止めて宙を仰いだ。考え事をするときの癖だ。
フラップの仕事は、この世界の不具合を見つけて管理者に報告することだ。いわゆる観測者である。
大した額ではないが、毎日のんびりと釣りをしているだけで基本給がもらえることが気に入っていた。しかも、重大な不具合を発見した場合には特別ボーナスが出ることもある。
フラップは入力フォームに『アイテムの所持者判定の不具合に関連する無限販売について』と打ち込んだ。
「まあ、こんなところか」フラップは考え込むような素振りを見せながらつぶやいた。
仮想世界『グラン・トピア』のクローズドαテストから観測者として参加していたフラップは、この世界に初めてログインしてから既に一年以上が経過していた。現在はオープンβテスト中で、約二十万人のテストプレイヤーが参加している。正式サービス開始直前なので、既に大半の不具合は解消されており、観測者の数は減少していた。
『グラン・トピア』は革新的な精神没入型のオンラインMMORPGであり、プレイヤーは脳に直接データを送信する幻影転送機を使用して、現実と見分けがつかないほどリアルな仮想世界に没入することができる。
以前は、精神没入型は脳への影響の有無について、医学的に証明されていなかったため、国によっては利用および機器の所有が厳格に禁止されていた。しかし、三年前に権威ある研究機関から脳への影響は皆無に等しいとの研究結果が発表され、精神没入型の各種サービスが世界的に一気に普及した。
このゲームは広大なオープンワールドを舞台にしており、プレイヤーは探究者となって世界中を自由に冒険し、クエストをクリアし、モンスターと戦い、仲間と協力して巨大なボスに挑むことができる。
ゲーム内には多種多様な種族や職業が存在し、それぞれがユニークな能力とスキルを持っている。プレイヤーはキャラクターメイクで自分だけのキャラクターを作成し、成長させていくことができる。また、プレイヤー同士の交流や交易も盛んで、まるで本当の世界にいるかのような体験が味わえる。
数ある精神没入型のオンラインMMORPGが熾烈なプレイヤー獲得合戦を繰り広げる中で、『グラン・トピア』の最大の売りは、プレイヤーと区別がつかない程の高度なNPCが実装されている事であった。
NPCとは、ノンプレイヤーキャラクターの頭文字を取った略語で、プレイヤーが操作しないキャラクターのことである。仮想世界が流行するかなり前から使われていた言葉で、その当時のNPCは、プレイヤーをメインシナリオへ上手く誘導するために、プログラムされた数パターンの台詞を言うだけの存在であった。しかし、AIが発達した現在、NPCは観測者や探究者と自然にコミュニケーションが取れる存在となっている。中でも『グラン・トピア』のNPCの精巧さは、他のサービスを圧倒するほどであった。
それもその筈である。『グラン・トピア』では十台の量子コンピューターでリアルタイムの並列処理を行うことで、百万人以上のNPCを同時に稼働させているのであった。しかも、プレイヤーの幻影転送機にはほとんど負荷をかけずに処理を行っていた。
しかし、それ故にクローズドαテストの開始直後は致命的な不具合も多かったため、多くの観測者がその腕を振るったのである。
フラップがキャラクターメイクの際に、種族をあえて一番人気のない人間の男性、つまり現実世界と同じにしたのは、同種族の観測者同士の争いを避けるためだったが、観測者の多くがログインしなくなった今となってはその意義は薄れていた。
それでも、フラップはこの世界に留まることを選んだ。彼には、この世界の根幹を揺るがすような重大な発見に繋がる仮説があったからだ。この仮説を証明するまでは、フラップはこの世界での活動を続けようと考えていた。
この思いは完全に彼の内に秘められており、これまで誰にも話したことはなかった。毎日の観測者としての作業を続けながら、仮説が現実となる日を心待ちにしていた。仮説が証明されれば、この仮想世界に革命が起こるだろう。フラップはその瞬間を誰よりも先に目撃し、自らの手でこの世界の隠された真実を暴き出すことを夢見ていたのだ。
フラップは不具合報告書を書き終えたが、どこか罪悪感を感じて送信ボタンを押すのを躊躇した。この不具合に追跡管理が入れば、それなりの額がフラップの口座に振り込まれるはずである。しかし実のところ、報告した不具合を発見したのは自分ではなく、リンネという名のNPCだったからだ。
それにしてもあのリンネという名のNPC、ここ数ヶ月でいくつもの不具合を発見しているのはただの偶然だろうか。いや、そうは思えない。
「ちょっと確かめる必要があるかもな」フラップはそうつぶやいた。
報告書が無事に送信されると、フラップはフォログラムディスプレイのメニューに向かって「精神開放」と静かに声を発した。
「精神開放しますか?」という確認メッセージが表示される。フラップは再び「はい」と声に出して答えた。
視界が暗転し、仮想世界の風景が徐々にフェードアウトしていく。やがて、完全に暗闇に包まれると、現実世界の感覚がゆっくりと戻ってきた。
「固定解除」とフラップが口にすると、頭部に装着していたヘッドギアや手首、足首、胸部の固定具が自動的に外れた。 幻影転送機の内側は、ホールスキャナーから漏れる柔らかな青い光で照らされている。フラップは椅子の側面にある小さなパネルに手を伸ばし、降機ボタンを押した。椅子が静かに下方向へ駆動する。マルクは足をつけて慎重に立ち上がった。
部屋の空気は冷たく、少し湿っていた。窓の外からは微かな雨音が聞こえ、夜の灯が部屋の中に淡い影を落としている。フラップはコーヒーカップを片手に、町中を見渡せる窓辺にしばらく立ち、虚ろな目で物思いにふけった。
ふと、リンネという名のNPCのことが頭をよぎる。フラップはリンネとの出会いがただの偶然ではないように思えてならなかった。微かな予感めいたものを感じていたのだ。
「あいつを上手く利用すれば、サーバーをダウンさせるだけでなく、再起動を阻止することさえ可能かもしれない」
フラップは椅子に腰を下ろし、コーヒーを一口で飲み干した。彼の口元には不敵な笑みが浮かんでいた。
フラップの心には新たな決意が宿っていた。