タカラの『チョロQ』や任天堂の『ゲームウォッチ』がキラ星のごとく輝き、模型店には『ガンプラ』を求める子供たちの長蛇の列ができていた、あの熱狂の時代。今から40年以上前、私が小学校2年生で、映画館では『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』がスクリーンを揺るがしていた頃の話だ。
当時の最新鋭の玩具たち――それらすべてを買うお金など、私が到底持ち合わせていなかったのは言うまでもない。
月200円の小遣いと、手の届かない流行のオモチャ

私の毎月の小遣いは、わずか200円。チョロQが350円、ガンプラ(1/144スケール)が300円だったから、当然、指をくわえて眺めるだけ。待ちに待った小遣い日には、なけなしの金で駄菓子を買い込み、あっという間に一文無しになるというサイクルを毎月律儀に繰り返していた。だから、クラスメイトが夢中になっていた流行のアイテムなんて、私の手元に来るはずもなかった。
必然的に、私の遊びの選択肢は「お金を使わないもの」に限られてくる。そして、そんな私は当時、誰にも理解されない、ある特異な遊びに熱中していた。
私だけのインディ・ジョーンズごっこ、その名は「土器集め」
私が夢中になっていた遊び、それは「土器集め」だ。
ほぼ毎日のように、歩いて30分ほどの隣町へ足を運び、作物を作らなくなって久しい、放置された畑の中で泥まみれになって「土器」を探す。そんな遊びだった。
日本の学習指導要領では、縄文時代・弥生時代といった先史・古代の土器やくらしについて体系的に学ぶのは、小学校6年生の社会科の時間だ。だから、当時の私は土器が何かなんて、まだ知る由もなかった。映画館で『レイダース』が公開されていたとはいえ、もちろん映画を観るお金などあるはずもなく、私が初めてインディ・ジョーンズ博士の活躍を目の当たりにしたのは、それから4年後、テレビで放映された時だったろう。
つまり、古代ロマンなんて言葉のカケラも知らない状態だったにも関わらず、私は来る日も来る日も、畑で「土器集め」に勤しんでいたのだ。
母親に「どこへ行くのか?」と聞かれるたび、「あまり遠くへ行くな」という言いつけを守るため、私は「近所の公園」と嘘をついていた。「何をするのか?」という問いには、なぜか素直に「土器集め」と答えていたのだが、親はいつもけげんな顔をして、「またうちの子が、オリジナルのへんてこな遊びを考え出したらしい」とでも認識していたようだ。
幼い頃から、周りの子供たちとはちょっと違った、変わった遊びを考案するのが好きだった私は、そうやって親をいつも困惑させていた。私が編み出したその他の奇妙な遊びについては、また別の機会にでもお話ししよう。

私が「土器」と呼んでいたそれらは、まるで植木鉢のかけらのような、ざらっとした質感と土気色をしていた。粘土を素焼きにしたような感じで、直径2cmくらいの、ちょうど囲碁の碁石(ごいし)を一回り大きくしたような円盤状のものが、私のコレクションの定番だった。私はそれを勝手に「丸土器」と名付けていた。

でも、コレクションはそれだけじゃない。中にはマカロニのような短い筒状のものや、小さなお面、人物の顔、動物の形がくっきりと彫られたものもあった。とにかく、ありとあらゆる形があって、見つけるたびに私の心は躍った。
幼心にも、それらの保存状態から、ずっと長い間、畑の中に埋もれて風雨にさらされてきたのだろうと察していた。それが私にとって、たまらないロマンの塊だった。親に「これ、なあに?」と聞いた時、「昔の人が、豊作のお祈りなんかに使ったものじゃないかしら?」と言われたことが、その思いにさらに拍車をかけた。
泥まみれの探検と、誰にも理解されない熱狂

1時間ほど四つん這いになって畑を丹念に探しまわり、見つかる「土器」はせいぜい2つか3つ。それでも、明らかに人の顔や動物の形がわかるようなものを見つけた時の喜びようといったら、思わず飛び上がってしまうほどだった。
友達にも毎回、得意げに戦利品を見せびらかしたが、誰一人として興味を示すものはいなかった。まぁ今考えてみれば、チョロQやゲームウォッチで目を輝かせている子供たちに、泥まみれの小さなカケラを見せたところで、興味を惹くわけがないのだが…。
そして、誰にも共感されない日々が続き、私の「土器探し」の熱は徐々に冷めていき、いつしか畑を這い回るあの特異な遊びには、興味がなくなっていった。
数十年後、インターネットで知った衝撃の真実
それから何年も経ったある日、ふと子供の頃の「土器探し」を思い出し、インターネットで調べてみた。すると、驚愕の事実が判明した。
私が毎日泥だらけになって血眼で探していたのは、古代の土器などではなく、江戸時代に大流行した「泥めんこ」という子供の玩具だったのだ 。
しかも、その泥めんこは、大阪で生まれ江戸で広まったもので、それがゴミとして捨てられ、当時の貴重な肥料であった人糞尿(下肥)と一緒に、江戸の食糧生産拠点だった千葉の畑に船で運ばれ、ばらまかれたもの が、長い年月を経て私の目の前に現れた、という数奇な運命を辿っていたのだ。
つまり、あの頃私が必死に探しては目を輝かせていた「土器」たちは、江戸時代の子供たちが遊んだ後、捨てられ、遠路はるばるウン〇まみれになって千葉の畑にやってきた「ゴミ」だった、ということになる。
「江戸ゴミ」についての調査レポート:都市の廃棄物から農村の肥料へ
A. 江戸の衛生と「江戸ゴミ」の概念
百万都市・江戸では、膨大な量の都市廃棄物が発生していました。これらは総称して「江戸ゴミ」と呼ばれますが、その中身は多様でした。特に重要なのは、人間の排泄物である「下肥」(しもごえ)で、これは非常に価値のある肥料と見なされていました 。その他、調理や暖房で出た灰(これも肥料成分を含む)、野菜くずなどの生ゴミ(堆肥化されたり、促成栽培のために地温を上げるのに利用された)、そしてもちろん、壊れたり失われたりした泥めんこを含む日用品の廃棄物も「江戸ゴミ」の一部でした。これらの収集は組織的に行われ、「下肥え取り」が下肥を買い取り、長屋の大家にとっては重要な収入源にもなっていました 。
B. 「江戸ゴミ」の経済的・農業的重要性
「江戸ゴミ」、特に下肥は単なる廃棄物ではなく、貴重な農業資源でした。それは売買の対象となり、一種の「糞尿マーケット」を形成していました 。この肥料は、江戸の巨大な人口を養うために周辺農村で行われていた集約農業にとって不可欠であり、土壌の肥沃度を高め、野菜の促成栽培などにも貢献しました 。宮崎安貞の農書『農業全書』でも、人糞尿の肥料としての重要性が強調されています 。
この江戸の廃棄物処理と再利用のシステムは、経済的インセンティブと農業上の必要性によって駆動された、当時としては洗練された循環型経済の一形態と見なすことができます。都市の排出物が農村の生産資源となり、都市とそれを支える農業地帯双方の持続可能性に寄与していたのです。千葉の畑で泥めんこが見つかるという事象は、この大規模で体系的な資源リサイクルの副産物と言えるでしょう。
C. ロジスティクス:「江戸ゴミ」を千葉の農地へ
「江戸ゴミ」や下肥のようなかさばる重量物を江戸から農村部へ輸送する主要な手段は舟運でした 。汚穢舟(おわいぶね)や肥船(こえぶね)と呼ばれる専用の船が用いられ 、利根川や江戸川水系がその大動脈となりました 。
千葉県の東京湾東岸地域へは、隅田川を下り、小名木川のような運河を経由して行徳(塩の産地としても知られる重要な港)へ至り、そこから江戸川を遡上して市川や松戸といった地域に達するルートが考えられます 。これらの東葛飾地域は、江戸からの水運によるアクセスが良好な肥沃な農地であり、「江戸ゴミ」の主要な受け入れ先でした。
これらの水路は肥料輸送専用ではなく、あらゆる物資や人の移動にも使われた主要な交通路でした。そのため、「江戸ゴミ」の輸送ルートは、既に確立された活発な流通経路と重なります。これは、ゴミと一緒に、意図的か非意図的かにかかわらず、泥めんこのような文化的な物品も運ばれる可能性があったことを示唆しています。
「土器」の正体、それは江戸の子供たちの遊び道具「泥めんこ」

私が「丸土器」と名付けていた、あの碁石のような円盤状のものは、「泥めんこ」の代表的な形状の一つで、「面打(めんちょう)」と呼ばれるものだったらしい 。そして、お面や人物、動物の形をしていたものは、「芥子面(けしめん)」という、これまた泥めんこの一種だったようだ 。
泥めんこは、江戸時代から明治時代にかけて子供たちの間で大流行した、粘土を型で成形し素焼きにした小さな玩具だ 。その種類は驚くほど多彩で、一説には2000種類以上もあったと言われている 。恵比寿様や大黒様、鯛といった縁起物のモチーフ から、人気の歌舞伎役者や力士、動物、植物、家紋、さらには当時の世相を反映した謎かけのようなものまであったというから驚きだ 。
さらに調べてみると、この泥めんこは、時代とともに姿を変えていったこともわかった。明治時代に入ると、より丈夫な鉛製のめんこ(鉛めんこ)が登場し、泥めんこは次第に姿を消していく 。しかし、その鉛めんこも、鉛中毒の懸念から後に販売が禁止され、最終的には私たちにも馴染み深い紙製のめんこへと移り変わっていったのだ 。
何の因果か──土器探しをやめてから数年後、再び私の胸を熱くしたのは「紙めんこ」だった。

そもそも「めんこ」という言葉の起源は、泥めんこに多く見られた人物の顔のデザインから「小さいお面」という意味で呼ばれるようになったという説がある 。そして、泥めんこ遊びのルーツは、大人が銭を地面の穴に投げ入れて遊んだ「穴一(あないち)」という賭け事を、子供たちが真似て、銭の代わりに泥めんこを使ったことから始まったと考えられている。この遊びは子供たちの間で大流行し、あまりの熱中ぶりに、時には幕府から禁止令が出されるほどだったというから、その人気ぶりがうかがえる。
なぜ、めんこは「奪い合い」だったのか? そのルーツに隠された秘密
実は、めんこの遊び方には、他の子供たちの遊びとはっきり違う、ある特徴的なルールがあることに、私は昔からずっと疑問を抱いていた。それは、勝ったら相手のめんこを「奪う」ことができるという点だ。普通の子供同士の遊びなら、遊び終われば持ち主に返すのが当たり前だろう。でも、めんこだけは違った。まるで真剣勝負のように、めんこの所有権そのものを賭けて奪い合っていたのだ。一体なぜなのだろう? その疑問の答えは、泥めんこのルーツを探るうちに見えてきた。そう、大人が実際のお金(銭)を使って行っていた賭け事の「真似事」だったからなのだ。つまり、お金の所有権を賭けたスリリングな遊びが、子供たちの世界に形を変えて持ち込まれた結果、めんこを奪い合うという独特のルールが生まれたというわけだ。子供たちがそんな賭け事の真似事に熱狂し、一大ブームを巻き起こしていたとすれば、幕府がたびたび禁止令を出さざるを得なかったのも、今ならよく理解できる。
消えたロマンと、新たなロマンの萌芽

当時感じていた、あのとてつもない古代へのロマンは、その事実を知った瞬間にガラガラと音を立てて崩れ去ってしまった。私のインディ・ジョーンズごっこは、壮大な勘違いの上に成り立っていたのだ。
けれど、不思議と落胆だけではなかった。
江戸時代の子供たちが、私と同じように目を輝かせて遊んでいたであろう小さな玩具が、およそ140年もの時を超え、様々な偶然と必然を経て、昭和の世を生きる私の小さな手のひらに届けられた。その事実は、形を変えた、新たな、そしてちょっとだけおかしみのあるロマンを、現代の私に感じさせてくれるのだ。
あの頃の私には、チョロQもガンプラもなかったけれど、江戸時代からのささやかな贈り物を掘り当てるという、誰にも真似できない、とびきりユニークな冒険があった。そしてそれは、今でも私の心の中で、泥まみれのまま、キラキラと輝いている。
皆さんの足元にも、もしかしたら時を超えた小さな物語が眠っているかもしれない。たまには下を向いて歩いてみるのも、悪くないかもしれない。