これはいわゆる「火遊び」のはなしだ。
子供の頃、自分で考え出した奇妙な遊びの数々を、これまでブログにいくつか書いてきた。だが、少し思い返すだけでも、まだまだ出てくる。当時の私は、日々溢れ出す奇想天外な妄想を、どうにかして現実の形にしようと躍起になっていたのだ。
今あらためて振り返ると、当時の親から見れば、将来を不安に思うほどの変わり者だったに違いない。もっとも、のちにそのことを母に尋ねてみても、ド天然の彼女は当時の息子の奇行をさっぱり覚えていないという。この母にして、この子あり、といったところだろうか。
これから書くことは、わりと子供の遊びには寛容だった昭和の空気の中でしか成立しない話である。いや、正確に言えば、昭和であってもかなり危ない。今ならまず止められるし、真似していい話でもまったくない。ただ、あの時代の雑な空気と、子供の無茶な発想が結びつくと、時に妙な遊びが生まれてしまう。これはそういう話である。
砂場の特撮:爆竹と戦艦

当時、私は「爆竹(ばくちく)」で遊ぶのが好きだった。
今では考えられないことだが、当時は駄菓子屋で普通に売っていたのだ。色紙で包まれた、小指の先ほどの小さなダイナマイトのような形状。少量の火薬が詰まったそれが二十個ほど導火線で束ねられて売られていた。本来は中国などで魔除けやお祝い事に使われるものだが、当時の日本の駄菓子屋では一束十円か二十円という、子供の小遣いでも簡単に手に入る手軽な玩具だった。
とはいえ、束のまま火をつけて一気に鳴らすだけでは一瞬で終わってしまう。それでは芸がないので、当時の私は買ってきた爆竹をまず全てバラバラに解体することから始めていた。一本ずつに分けることで、より長く遊べるからだ。
当時はそこら中にジュースのスチール缶や空き瓶が落ちていたので、その中に入れて、耳をつんざくような大きな音を出して遊んだ。また、当時の公園の砂場は野良猫の格好のトイレになっていて、必ずと言ってよいほど糞が落ちていた。私はそこに爆竹を深く差し込み、爆発とともに粉々に飛び散る様子を見て腹を抱えて笑っていた。子供が「うんこ」と戯れるのは今も昔も変わらない。
だが、そんな一本ずつの単調な破壊にも、やがて私は飽きてしまった。そこで次に考えたのが、自分なりに高度な「演出」を加えることだった。
その発想が最も色濃く反映されていたのが、砂場で作る戦艦だった。

砂場に全長二メートルほどの戦艦を作る。しかも、ただの山ではない。自分なりにかなり精巧に作る。船首があり、甲板があり、砲台のようなものもある。周囲には海に見立てた砂の面も作る。私は超が付くほどの凝り性なので、驚くほど精密に、そしてリアルに作ることにこだわっていた。
当然、制作にはそれなりに時間がかかる。時折、通りがかりの親子が様子を見に来て、その出来栄えにしきりに感心していた。まあ、中には砂場を独占していることに顔をしかめる親もいたが、当時の私はそんなことはお構いなしである。
そして、ようやく完成すると、あちこちに爆竹を埋め込んでいく。

最初は海面への着弾から始める。まるで本物の砲弾が着水したかのように、砂が鋭く舞い上がる。少しずつ戦艦に近づけ、いよいよ被弾。船首、甲板、砲台と順に破壊され、側面には魚雷の命中を模した爆発が起きて激しく損傷する。最後は司令塔のような部分が吹き飛ぶ。さらに複数箇所を立て続けに爆発させ、ついに沈没。
頭の中では、完全に戦艦撃沈シーンが再生されていた。爆破のたびに砂が飛び散り、精魂込めて作った船体が無残に崩れていく。その破壊のプロセスが、とにかく格好よかった。普通の子なら、理解できない感覚かもれない。だが私の場合は、どう壊れていくとそれらしく見えるか、どこから攻撃を始めれば物語になるか、そんなことばかり考えていた。
今振り返れば、私は単に危険なことを好む「危ない子供」だったわけではない。砂場をミニチュアセットに見立て、特撮映画さながらの劇的な瞬間をいかに再現するか。その一点に執着する、妙にこだわりの強い子供だったのだと思う。
自作飛行機と苦いプレゼント

そして、もうひとつ忘れられない火遊びが「ロケット花火飛行機」である。
当時、駄菓子屋には軽い素材でできたグライダーのような飛行機のおもちゃが売っていた。先にゴムを引っかけて飛ばす、小さくて安っぽいが妙によく飛ぶやつだ。だが、私は小遣いが少なく、それを買うことができなかった。
だから自分で作った。厚紙を使って、飛行機を作っていたのである。最初は大したものではなかったが、試行錯誤していくうちに、そこそこ飛ぶものが作れるようになった。今思えば、ずいぶん変な子供だった。普通なら買ってもらえなければ諦めるところを、「なら自分で作ればいい」と考えていたのだから。
だが、その自作飛行機には少し苦い思い出もある。ある日、子供会か何かのプレゼント交換会のようなものがあった。周りの子たちは店で買ったおもちゃやプラモデルを持ち寄っていたが、プレゼント代を親に却下された私は、自分で工夫して作った飛行機を箱に詰めて持っていった。
母は「素敵なプレゼントだね」などと呑気に言っていたが、子供の世界はそう甘くはない。私のプレゼントを引き当てた子は、箱を開けた瞬間に「なにこれ! いらねー!」と露骨に嫌な顔をした。
あれは恥ずかしかった。自分では最高のものを作ったつもりが、相手にはただの意味不明なガラクタにしか見えなかったのだろう。あの瞬間を境に、私は飛行機を作るのをやめてしまった。
ロケット花火の推進力

ところが、ある夏の夜にロケット花火で遊んでいて、記憶がふとよみがえった。「そういえば、自分で飛行機を作っていたな。あれにこのロケット花火を付けて飛ばしたら、とんでもなく遠くまで飛ぶのではないか」そう思いついてしまった。
今考えれば、本当にどうかしている。だが当時の私は、危険性よりも先に、頭の中のイメージに興奮していた。
当時も「火遊び」は厳禁とされていた。だが、私はかなり風変わりな子供だったので、一度創造力の矛先が定まってしまうと、それを自力で曲げるのは至難の業だったのである。
久しぶりに厚紙で飛行機を作り、ロケット花火を装着する。「人に当たったら危ない」という、子供心に考え抜いた精一杯の配慮として、私は当時住んでいたマンションの最上階(十三階)へと向かった。眼下に広がる人気のない雑木林を、自分だけの「安全な実験場」に定めたのである。
下敷きを使って斜め上向きのカタパルトのようなものを作り、そこに飛行機を乗せ、ロケット花火に点火して発射。頭の中では、それは見えなくなるほど遠くへ飛んでいくはずだった。
だが現実は違った。ロケット花火の重さ、飛行機自体の強度不足、前に寄りすぎた重心。そんなものが全部重なって、飛行機はきれいに錐もみ状態で落下した。
がっかりした。だが、そこで終わらないのが、子供の頃の私の面倒なところである。
「推進力と強度と重心を調整すれば、まだいけるのではないか」
そう考えた私は、その頃ちょうどハマっていた割り箸ゴム鉄砲づくりの技術を応用し、厚紙と割り箸でより頑丈な飛行機を作った。さらに、今度はロケット花火を二本、左右の主翼の下に装着した。
しかし、左右のロケット花火を同じタイミングで噴射させるのは難しい。結果はまたしても錐もみ。百円ライターを両手に持って同時に点火するという、本当に危険な方法まで試したが、それでも微妙にタイミングがずれて失敗した。
そして最後に思いついたのが、カタパルト発射をやめ、飛行機を手で持ったまま点火し、噴射が始まってから投げるという方法だった。
もちろん、今なら絶対にやってはいけない。当時でも十分危ない。ただ、昭和の子供、とくに少し頭のおかしかった私は、そこまで深刻な危険とは思っていなかった。

その結果、飛行機は三秒ほど加速し、雑木林の奥へ飛んで消え去った。少し遅れてロケット花火の「パーン!」という破裂音だけが高らかに響いた。
私は大満足だった。
狂気と創意工夫
実を言うと、私は今、生成AIを使って動画を作ることにはまっているのだが、これもあの頃の思考回路とまったく同じである。頭の中にあるイメージを、最新の技術を使ってどうにか現実の形として出力しようと躍起になっている今の自分は、砂場で戦艦を爆破させていた約40年前の自分と、地続きの場所にいるのだ。
私の子供時代は、昭和という雑な時代の空気の中で、創意工夫と危険と不謹慎が同居していた。
だが、あの頃の自分の奇妙な発想は、今振り返ってもわりと好きなのである。

