誰にでも、子供の頃にだけ夢中になった「伝説の遊び」があるんじゃないだろうか。私にとってそれは、小学校5年生の時に仲間たちと繰り広げた、あまりにも熱く、そしてあまりにも短かった「足けり車レース」だ。
すべては、転がり落ちるサッカーボールから始まった
私たちの「サーキット」となったのは、マンモス団地に沿って学校へ向かう、長くて急な下り坂だった。Googleマップで測ってみたら、その距離なんと250メートル。坂の下は教師用の駐車場で、休日は車が全く通らない、私たちにとっての聖域だった。
ある日の放課後、私と友人二人、計三人でその坂を上っていた時のことだ。友人が持っていたネット入りのサッカーボールをふざけて蹴ったら、ボールは友人の手から離れ、意思を持ったかのように坂道を猛スピードで転がり落ちていった。

「やばい!」
ボールは大きくバウンドしながら加速していく。このままでは誰かにぶつかって怪我をさせてしまうかもしれない。私と友人は、心臓をバクバクさせながら必死でボールを追いかけた。幸いにも、100メートルほど転がったボールはガードレールに激突し、大きく跳ね上がってようやく止まった。
「はぁ、はぁ……よかった……」
胸をなでおろしたその瞬間、私の頭に一つのアイデアが稲妻のように閃いた。
「この坂、何かの遊びに使えないか?」
最高の遊びを求めて

最初に思いついたのは「サッカーゴルフ」だった。
当時、日本中が『キャプテン翼』に熱狂し、空前のサッカーブームが巻き起こっていた。ちょうど全国大会編で南葛 vs 明和戦(翼 vs 日向)が描かれ、ファンの熱狂が最高潮に達していた時期だ。
その影響もあってか、サッカーボール一つあればどこでもできる「サッカーゴルフ」は、私たちの定番の遊びだった。コースとゴールを決め、いかに少ないキック数でたどり着けるかを競う。単純ながら、ボールが思わぬ方向に転がったり、障害物があったりと、奥が深くテクニックが試される遊びだった。
しかし、この250メートルの急坂は、サッカーゴルフのコースとしてはあまりにも難易度が高すぎた。キックしたボールは、止まることなく永遠に坂の下まで転がっていってしまうだろう。最初のアイデアは、あっけなく頓挫した。
「もっと、このスピードを活かせる遊びは……」
そうして考え抜いた末にたどり着いたのが、「足けり車レース」だった。これだ。これしかない。最高の遊びを、ついに見つけ出した瞬間だった。
“マシン”調達大作戦
友人が住んでいたマンモス団地は、建設から10年以上が経っていた。子供の成長とともに役目を終えたであろう足けり車が、あちこちに放置されているのを私は知っていた。
「おい、この坂で足けり車レースしようぜ!」
私の提案に、友人二人は「子供のおもちゃを借りるなんて恥ずかしい」とあっさり却下。だが、私は諦めなかった。
「分かった。俺が借りてくるから、ここで待ってて!」
そう言い残し、私は一人で団地へと走り出した。

少し汚れて、長い間放置されていそうな足けり車を見つけては、その家のチャイムを鳴らす。「この車、貸してください!」 出てきた住人は皆、怪訝な顔で私を見て「何に使うの?」と尋ねた。
私は正直に「乗って遊びます!」と答えた。哀れむような視線を向けられても、少しも気にならなかった。10軒ほど回り、3軒の家が「断る理由もないから」と、仕方なく貸してくれた。
3台の”マシン“を手に、意気揚々と坂道へ戻ると、本当に調達してきた私を見て友人たちは大喜び。私たちのグランプリが、いよいよ幕を開けた。
風になった、あの瞬間
「「「よーい、ドン!」」」

合図とともにアスファルトを力いっぱい蹴り出す。車輪が勢いよく回り始めると、体はぐんぐんと加速していく。頬をなでる風、地面すれすれの低い視点から見る景色。これまで感じたことのないスピード感とスリルに、私たちのテンションは最高潮に達した。遊園地のゴーカートより、何倍も面白い!
レース中盤、150メートル地点に現れる大きな急カーブが勝負の分かれ目だ。

ハンドルをめいっぱい切り、まるでバイクレーサーのように体を地面すれすれまで傾ける。ブレーキなんてない。遠心力に耐えながらカーブを走り抜け、私は見事1着でゴールした。
「すげえ!」「もう一回やろう!」
次々とゴールした友人たちも興奮を隠せない。私たちは息を切らしながら坂道を駆け上がり、日が暮れるまで、何度も何度も風になった。
夢の終わり

しかし、私たちの熱狂は長くは続かなかった。
レースに明け暮れて4日目。いつものように”マシン”を借りに行くと、持ち主から難色を示された。「坂道でレースをしてるんだ」と説明すると、「危ないからやめなさい」と、ついに”マシン”を貸してもらえなくなってしまったのだ。今考えれば、当然の結末である。
こうして、私たちのたった3日間のレースシーズンは、あまりにもあっけなく幕を閉じた。
大人から見れば、それはただの危険で愚かな火遊びだったのかもしれない。でも、あの坂道を駆け抜けた時の高揚感と、仲間と笑い合った記憶は、今でも私の心の中で輝き続けている。
あれは間違いなく、僕らの伝説のグランプリレースだったのだ。