孤独と狂気

alonedays001

今夜もサイレンの音がけたたましく鳴り響いている。

ここから五十メートル先の交差点を左に曲がってすぐの角地に、大きな消防署があるからだ。ここに住み始めた五年程前は、あの音を聞くたびに少し心が痛んでいた。しかし、残念ながら今は何も感じなくなってしまった。

昨日のニュースで、目と鼻の先にあるホテルで殺人事件が起こったと知った。今年だけで何件目だろうか。犯人は大学生で、出会い系カフェで知り合ったばかりの女性と金銭で口論になり、首を絞めて殺害したという。

…きっとこの街は病んでいる。

俺は小説によくありそうなこのフレーズを、ここ数年、頭の中でずっと反芻してきたのだ。もしかしたら俺自身も、この街と同じように心の病に侵されているのかもしれない。

先月から始まった謎の女性からのインターフォン攻撃は未だに続いている。インターフォンを二十分以上連打し、ロックされた扉を無理やりこじ開けようとドアノブを回し続けるなんて、正気の沙汰ではない。きっと彼女も心の病に侵されているに違いない。

俺はワンルームマンションの十階に住んでいる。最近わかったことだが、彼女は一階下の九階に住んでいるらしい。訪ねてくる時間は彼女の気分によって異なる。夜中の二時だったり、朝方の五時だったり。時には休日の夕方だったりもする。

どうやら彼女は俺の部屋にかつての恋人が今も住んでいると思い込んでいるようだ。「○○君は居ますか」という問いに、「その男性はこの部屋にはいませんよ」と告げても、その場で何度も同じ質問を繰り返す。

ドアスコープから見た彼女の顔は、ロングヘアが貞子のように垂れ下がっていて最初はとても恐ろしかった。けれどよく見ると、顔はやつれ、目は何かを懇願するように潤んでいて、とても悲しそうなのだ…

alonedays002

お人好しと言われるのは百も承知だが、管理会社や警察に通報することをギリギリのところで何度も思いとどまってしまうのは、その悲しい目に気付いてしまったからだ。通報などしたら間違いなく彼女が一方的に責められ、今よりも酷い心理状態に陥るのは明白だ。

俺にできるのは、身近な人の手助けで彼女がなんとか自分を取り戻し、晴れやかに新たな人生の一歩を踏み出してくれるのを願うことだけだ。

事件はそれだけではない。数日前、マンションの一階のエントランスに何者かが強烈な異臭を放つ油を撒き散らした。ちょっと嗅いだだけでも気分が悪くなるほどの臭いだ。実はこの事件、俺が知っている限りで三回目なのだ。

alonedays003

防犯カメラがついているはずなのに犯人特定には至らず、管理会社の対応は「警察官による監視強化中」と書かれた小さな張り紙が掲示板に貼る程度だ。住んでいる人間からすればすぐにでも解決してほしい事件だが、管理会社からすれば、こんなことは日常茶飯事で、親身になって対応するほどの余裕もないのだろう。

犯人が何を思って油を撒いているのかは理解できないが、きっと病んでいることに違いないだろう。

身近に病んでいる人はまだまだいる。マンションの裏手にある貯水槽の側にコンクリート張りの空地のようなスペースがあり、そこに四年程前から浮浪者が住んでいる。およそ六十代半ばの男性で、外見は一般的にイメージされる浮浪者のそれと同じだ。夏になると空地一帯に体臭が立ち込めて、近づけなくなる。

彼は時折、早朝五時頃に突然大声で怒鳴り散らす。自分の中で処理しきれなくなった凄まじい憎悪を解き放つように、腹の底から大声を出して怒鳴る。内容は誰かに対する物言いだが、当然ながら実際にそこに相手はいない。

きっと彼も昔は普通の人だったのだろうが、我慢を繰り返している内に心が壊れてしまったのかもしれない。

alonedays004

最初はその怒鳴り声で毎回起こされることに怒りを感じていた。しかし、怒鳴り散らすのが彼が目覚めた時間だとするならば、夢の中でも何かに責められ、それを我慢して、目覚めた瞬間に怒りが噴出するのか、それとも、幸せだった頃が夢の中で再現されていて、目が覚めた瞬間に現実に絶望しているのか…どちらにしてもこんなに悲しいことはないと思うようになってからはあまり怒りを感じなくなった。

心が病んでいるかもしれない女性が身近にもう一人。俺の部屋の隣に住んでいる男女は月に一度くらいのペースで酷い喧嘩をする。その荒れっぷりは半端なものではなく、壁越しに泣き叫ぶ声と物がぶつかる音とその振動が何度も伝わってくるほどだ。女性が「痛い!」という悲痛な声を上げるたびに、耳を塞ぎたくなるほどの心痛を覚えるが、俺にはどうすることもできない。喧嘩が酷い時は、女性が廊下へ閉め出され、「入れて!」と泣き叫んで扉を叩き続けるということも過去に何度かあった。

alonedays005

喧嘩のたびに暴力を振るう男などさっさと別れてしまえば良いのにと思うが、今の彼女がその男性の傍にしか自分の居場所を見つけられないとするなら、それは仕方がないことだし、やはり彼女も病んでいるのだろうと思う。

こんな孤独と狂気が入り混じった都会の真ん中で、これまで暮らしてきた。

俺はもうすぐこの街からいなくなるが、ここに書き記した人たちに、いつの日か、心の安らぎが訪れて欲しいと願ってやまない…

1 2