つい先日、ファイナルファンタジー16(以下、「FF16」という。)をクリアしました。約60時間プレイして、サブクエストやリスキーモブも全て消化しました。ところが達成感で満たされるはずだった私の心はずっとモヤモヤと霧がかかったようで、一向に晴れそうにありません。
そこで私は、この気持ちを整理するためにレビューを書こうと思い立ちました。
この先はあえて肯定的な部分は書いていませんので、否定的な感想がつらつら並ぶことになります。FF16を“ 神ゲー ”もしくは“ 良ゲー ”と評している人は、かなり不快な思いをする可能性が高いので、気分を害したくない人はどうかブラウザバックしてください。
これ以降はファイナルファンタジー(以下、「FF」という。)を愛するがゆえに多くのモヤモヤを抱えている人、また否定的な意見も参考として聞いてみたいと思っている人だけ読み進めてください。因みに物語の根幹に関わるネタバレを大いに含みますのでご注意ください。
結論から先に述べておくと、私にとってFF16は“ とても退屈なゲーム ” でした。
理由を述べる前に、私にとってFFとは何なのかについて書いておきます。これ以降を読むにあたっての前提条件として私のパーソナリティーを知ってもらいたいからです。少なくともアンチやエアプではないことは分かっていただけると思います。
0. FFとの出会い
私が初めてFFを知ったのは、初代FFが発売されてから2年後の1989年の春頃だったと思います。映画のように印象的なオープニング、リアルなグラフィック、美しいBGM、多彩な魔法、独自のジョブシステム、これら全てに衝撃を受けました。
ファミリーコンピュータのスイッチを入れる度に、剣と魔法のファンタジー世界が目の前に広がって心が躍りました。それ以来30年以上もの間、私はFFのナンバリングタイトルの発売を待ち侘びる日々を送る事になります。
10代の頃はFFに限らずファンタジーなら何でも飛びつきました。小説はロードス島戦記などの和製ファンタジーから、指輪物語などの海外の翻訳本に至るまで300冊以上読んでいます。
コンピューターRPGの元となったテーブルトークにもどっぷりとハマり、シナリオを創作してゲームマスターを務める事もありました。
ゲームはジャンルがRPGなら評判に関係なく何にでも手を出しました。アクションRPGを含めると100本近くプレイしています。そんな数あるRPGの中でもFFは20年以上、私の中で最上であり続けました。
因みにオンラインのFF11とFF14はプレイしていません。過去に『ウルティマオンライン』で廃人と化して以来、オンラインゲームには手を出さないと決めているからです。
さて、前置きはこれくらいにして、なぜFF16が私にとってとても退屈なゲームなのか、その理由を項目毎に述べていきます。
1. ストーリー
FF16は、何よりもストーリーに重点を置いていると再三にわたりプロデューサーから語られていましたが、残念ながらその肝心なストーリーのクオリティがとても低い印象を受けました。
もうゲームクリエイターだけの視点で社運を賭けたAAAタイトルを創るのは、時代錯誤と言っても過言ではないと私は思います。
エンディングテーマを米津玄師に任せたのと同様に、テレビドラマや映画などで実績のある脚本家にシナリオを任せたらどうでしょうか。
しかも一人ではなく、数人で出し合ったアイデアから取捨選択するくらいでないと、フォトリアルな世界観に見合った魅力的なシナリオを創作するのは難しいと思います。
ペダンチックな学者風
FF16の世界観は中世ヨーロッパに近く、登場人物の外見もかなりフォトリアルなので、現実との距離感を適度に保った台詞でなければ魅力的なものにならないと私は思います。
ところがカットシーンでは口語と文語が入り混じったようなライトノベル風の台詞回しが多く、ピクセルアート時代のFFとあまり変わっていませんでした。
やたらと小難しい言い回しや時代劇でしか聞かないような単語も頻繁に使われていて、違和感を覚える場面が多々ありました。ペダンチックな学者が辞書を片手にシナリオを書いている姿を想像してしまうほどです。
一方で召喚獣戦は、少年漫画的な台詞が多用されるため、ことごとく感情移入を妨害されます。
ゲームがしたい
FF16はジェットコースターのような体験を目指しているとプロデューサーが語っています。ポップコーンを頬張りながら2時間映画を観るような体験をイメージとして創られたのでしょうか。確かに映画の観客は、短く限られた上映時間であることを予め知っており、見たままを額面通りに受け取る準備ができているので、少々ご都合主義でも気になりません。
しかし、言わずもがなFF16はクリアまで30時間以上を要するゲームであって映画ではありませんので、プレイヤーのインタラクションに耐え得る世界観や練り上げられたシナリオが不可欠だと思います。
残念ながらFF16は2時間映画のようなご都合主義が30時間以上も続くのです。
私は映画が観たいのではありません。ゲームがしたいのです。
過去、FFがコンピューターRPGの頂点に君臨していた頃、一つの進化の形として映画版『ファイナルファンタジー』が制作されましたが、興行成績は会社の存続が危ぶまれるほどの大爆死だったという黒歴史があります。歴史は繰り返すと言いますが、スクエニの経営陣はあの大失敗を記憶の彼方に消し去ってしまったのでしょうか。
感情の溜め
私は多少シナリオの勉強はしていますがプロではないので、正確に表現できないのですが、私が面白いと感じる映画やドラマは、伏線が並列や入れ子構造で複雑に張られていることが多いです。しかもそれらが自然な形でさりげなく物語の中に埋め込まれているので、回収時にしっかりとカタルシスを感じます。
FF16は、張られた伏線の殆どが短期間で回収される直列構造になっています。また、登場人物の感情の動きも同様です。愛情も友情も家族愛も、プレイヤーが登場人物に共感するに足る“感情の溜め”が不足しているので、言動や行動が唐突な印象が強く、感情移入がとても難しいです。特にサブクエストではそれが顕著でした。
大人向けとは
一般的に“大人向け”とは、エログロも含んだ現実に即した表現という意味と、大人でも価値観や倫理観を揺さぶられるような重いテーマを持つという意味があると思います。FF16のストーリーは明らかに前者なのですが、制作陣は後者も含まれているようなニュアンスで語っています。そう思ってプレイすると肩透かしを食います。
2. 世界観(設定)
FF16の世界は、召喚獣を始めとしてメインストーリーの根幹に関わる要素でさえ、とても設定が緩く、”張りぼての世界”という印象が拭えません。
多くを語らずにプレイヤーの想像に任せていると言えば聞こえは良いですが、それは緻密な設定の上に成り立つものだと思います。現実に近いフォトリアルな世界で様々な齟齬が生じる度に、プレイヤー自身が脳内で辻褄を合わせなくてはならないのはシンプルに辛いです。
3. 召喚獣(ドミナント)
召喚獣はFF16の根幹をなす要素であり最大の売りといっても過言ではないにも拘わらず、設定があまり練り込まれていない印象を強く受けました。
フェニックスの祝福
私が召喚獣の設定でイマイチと感じるのは、何故かフェニックスのドミナントだけが「祝福」と呼ばれる特殊能力によって他人に召喚獣の力の一部を分け与える事ができる点です。
また、最初にイフリートが登場したシーンのミスリード演出が中途半端なので、おそらくプレイヤーの殆どはクライヴ自身がイフリートのドミナントだと分かってしまっていると思われます。ところがその直後、プレイヤーはフェニックスを操作してイフリートと戦う事になります。
このプレイ体験のせいで、後にクライヴ自身がイフリートのドミナントだったと知らされても、どこか白々しく他人事のように感じてしまいます。
アクションゲームとしての都合であり、同時に復讐劇として前半のストーリーを牽引したかったのだと思いますが、シナリオの練りが足らず、取ってつけたような設定という印象を強く受けました。
もし私だったらどんな設定にしただろうと考えてみました。
クライヴの力は「祝福」によって授かったものではなく、ミュトスとして覚醒する前兆として、不完全ながらもイフリートの力の一部を使えたという設定だったとしたらどうでしょうか。
クライヴは魔法を使えることから自身をベアラーだと思い込んでおり、その事はジルにしか打ち明けていません。しかし、父エルウィンと母アナベラは気づいていました。この設定であれば、クライヴのベアラーへの複雑な思い、エルウィンがベアラーを保護する理由、アナベラがクライヴを冷遇する理由、クライヴがベアラーを差別しないジルに対して特別な感情を持った理由、アルテマが目覚めた理由、これらそれぞれに説得力がありませんか?
ベアラーという設定を活かせば、「祝福」が無くても従来通りの復讐劇も成立させることができると私は思います。もちろん、クライヴがジョシュアのナイトという設定は残したままでも成立します。
歴代ドミナントの存在
ドミナントは大陸各地の部族民毎に顕現する者が一人だけ生まれるという設定ですが、歴代のドミナントに纏わる歴史や逸話は作中ではほとんど語られていません。
アルテマが眠りについていた期間はかなり長かったと推測できますので、強大な力を有したドミナントが過去に多く存在していたはずですが、世界観に全く反映されていないのは明らかに不自然です。
都合の良いドミナントの力
ドミナントはクライヴに力を奪われても、なぜか顕現できるし魔法も使えます。ベネディクタは力を奪われた後に暴走して死にますが、ディオンは宇宙空間でド派手に大爆死したはずが、なぜか生き残ります。しかもオリジンまでの便利な乗り物として顕現し、最終決戦においてもクライヴに力を奪われたことなど無かったかのように戦います。
見事なまでのご都合主義です。
私はドミナントの力を奪われたら、顕現も魔法も使えなくなる設定の方がシンプルで良かったのではないかと思います。仲間と一緒に戦うというFFの伝統を残すためかも知れませんが、ジルと同様にジョシュアのフェニックスの力も吸収して、全てを背負って独りで最終決戦に臨むという設定にした方が感情移入できたと思います。
召喚獣の強大すぎる力
極端なインフレ演出によって、召喚獣は核兵器並みの存在として描かれています。
中盤でクライヴたちはイフリート、シヴァ、フェニックスのドミナントを有する世界最大勢力となります。
その強大すぎる力があればマザークリスタルの破壊など赤子の手をひねるようなものですが、彼らはなぜか時間を掛けて生身で戦う事に拘ります。
私はプレイ中、25年以上前に観たSF映画『スターシップ・トゥルーパーズ』が何度も頭をよぎりました。無数の宇宙戦艦が銀河を往来する程に科学技術が発達しているにも拘わらず、巨大な宇宙生物と戦うのは主に軽装の歩兵で、武器はマシンガンだけです。
ところが兵士たちは文句ひとつ言わず勇敢に戦いを挑み、たった1時間で10万人が戦死します。この設定に強烈な違和感を覚えたのを思い出したのです。
4. 魔法
FF16は魔法という概念が世界観に全く溶け込んでいません。
魔法は人々が生活をおくる上で欠かせないものであるにも関わらず、生まれながらにしてクリスタルを使用せずに魔法が使える特殊能力を持ったベアラーは奴隷として扱われるという頓珍漢な設定なので、プレイしていても全然腑に落ちないのです。
世紀の大発見
町ではベアラーが魔法で水を生成していたり、植木の世話をしていたり、洗濯物を乾かしていたりするのですが、どれも生活を送る上で魔法が欠かせないと印象付けるには程遠い演出です。
火を熾すのにも魔法かクリスタルが不可欠という設定なのですが、実はシドが生前にクリスタルを使わなくても「ふいご」を使って火を熾すことができる世紀の大大大発見をしているのです。
どう考えても真っ先に世界中の人々に広めるべきだと思うのですが、クライヴはマザークリスタルを全て破壊した後で世に広めると素っ頓狂な事を言います。
魔法打ち放題
魔法を使うとベアラーもドミナントも身体が石化していずれ死に至るという設定ですが、クライヴはフェニックスの力を授かった青年期から魔法打ち放題です。それなのに誰も止めようとしません。壮年期になってもマジックバースト打ち放題です。
プレイヤー自らの手で主人公の死期を早めているのに、エンディングでクライヴが石化するのを見て涙するとか・・・もう私にはわけが分かりません。
5. ベアラー
ベアラーは仮に我が子であっても当たり前に差別されるべき存在として描かれています。
町の人々に話しかける度に「ベアラーごときが何の用だ?」という枕詞から会話が始まるほど、誰からも差別に対する罪の意識の欠片も感じず、数百年以上はベアラーが虐げられてきた歴史がありそうな演出になっています。
ところがサブクエストでは些細なきっかけでその差別意識は軽々しく消え去ります。シドに賛同する人たちも割と個人的な動機であっさりと差別意識を捨てた人々です。
空白の13年間
シドの死後、クライヴは「人が人として生きられる場所(≒差別のない世界)」を命題として奮闘する事になるわけですが、そこに至るまでの心の移り変わりが、行きがかり上見過ごせない程度の淡白な理由に感じてしまいます。
クライヴ自身が13年間もベアラーとして過ごしてきたという設定をもっと活かした演出が欲しかったです。
アルテマの完全スルー
物語終盤でアルテマは世界設定を饒舌に語ってくれるのですが、ベアラーについては最後まで完全スルーを決め込んでいます。
クライヴも「人が人として生きられる場所」が、「差別のない世界」という意味合いから、文字通りの「人が生きられる世界」にすり替わってしまいます。
逆張りの発想
フォトリアルな世界観で奴隷階級への人種差別問題を大きく扱うなら、重くセンシティブな問題として、それこそ大人向けのストーリーを構築しなければならなかったのではないかと思います。
FF16の映像表現は大人向けではあるものの、ストーリーは決して大人向けではありませんでした。
魔法が使える特別な人間には特権が与えられるのがファンタジーのセオリーであり、これまでFF(一部を除く)においてクリスタルは聖なる力の源のような役割でしたが、FF16での魔法とクリスタルの扱いは、尖った世界観にするための単なる”逆張りの発想”の域を出ず、作品のテーマとしての掘り下げはほとんどされていないように感じます。
6. 属性
FF16には属性攻撃が存在しません。おそらく理由のひとつはアクションゲームの都合上、属性が邪魔だったためと、もうひとつはカットシーン優先でRPG要素の殆どを排除したためでしょう。
しかし、属性攻撃が存在しない世界にも関わらず、明らかに火の属性っぽいモンスターに、ジルがシヴァに半顕現して氷の魔法で応戦したり、あたかも火の属性を帯びているようなクリスタルを氷の魔法剣で破壊したりします。
バトルシーンで属性を無くしたなら、カットシーンの演出でも属性攻撃の表現を避けるくらいの最低限の拘りを見せて欲しかったです。
カットシーンとバトルシーンの映像はシームレスに繋がっていますが、肝心の演出はまるで縦割り行政のように、しっかりと境界線が引かれていて溶け合っていない印象です。
7. クリスタル
マザークリスタルの正体はアルテマの同胞です。その同胞たちの肉体復活のため、完全生命魔法レイズに必要なエーテルを集めてオリジンに届けていたという設定なのですが、空の文明時代に人がアルテマに戦いを挑んだため、アルテマが怒りに任せてマザークリスタルごと消滅させたという設定もあります。
シンプルに辻褄が合いません。
テロリスト
魔法がないと人は生きていくのさえ困難なほど、クリスタルに依存した世界という設定なのに、各国の要人たちは誰一人としてクリスタルに依存せずに人が生きていくための方法を考えようとしていません。
シドですら明確な代替案を持ち合わせていないにも拘わらず、クリスタルを破壊しています。まさにテロリストです。
クリスタルの純度
あるサブクエストで「純度の高いクリスタルだな」という台詞があるのですが、この世界のクリスタルは地中で結晶化した鉱物ではなく、アルテマが創ったマザークリスタルから削り出しているのだから、純度など関係ないはずです。
この台詞ひとつ取ってみても、細部まで設定が行き渡っていない事がよくわかります。
8. 没入感
FF16の世界では、プレイヤーは”時間”に干渉できません。ストーリーが展開するカットシーンの合間に差し込まれる「しばらくして――」「13年後――」などの表記で時間が経過したことを知らされる以外、基本的に時間は止まっています。
フィールドや町でも時間は止まっていて生活感がまるでありません。ついでに天候も固定されているので、サブクエストをプレイしていると、カットシーンとは別の世界線にいる感覚になります。
当然ですが没入感はあまり感じません。
ミニマップがない理由
ミニマップを表示しなかったのは”没入感”を高めるためらしいですが、これは完全に逆効果だと思います。
フィールドも町もダンジョンもFF16の全てのマップに共通しているのは、移動可能範囲が分かり辛いところです。小さな段差が乗り越えられなかったり、逆に降りられなかったり、見えない壁にぶつかったり、見せかけの扉があったりするので、移動する度に頻繁に小さなストレスを感じる上、ミニマップが無いことでそれに拍車がかかります。
確かにオープンワールドゲームで見たままの世界を自由自在に動き回れるのであれば、ミニマップが視覚的に邪魔になる可能性はあります。しかしFF16のマップは移動可能範囲が分かり辛いので、その都度マップ画面に切り替えて行先を確認しなければなりません。
つまり、ミニマップが無いことで没入感を著しく阻害してしまっているのです。
トルガルの余計なお世話
ミニマップの代替としてトルガルのナビゲートが用意されていますが、これも完全に逆効果だと思います。
なぜなら没入感を高める最大の要素は”自由度”だからです。仮にフィールドやダンジョンやストーリーが一本道であったとしても、プレイヤーが自由に行動していると錯覚することで没入感が生まれるのだと思います。
ですから、トルガルのナビゲートは没入感を阻害されてしまうので使いたくないのです。つまり余計なお世話というわけです。
9. コンセプト
FF16を端的に表すなら“カットシーンを観るゲーム”に他ならないでしょう。
とにかく全てにおいてカットシーンが優先されていて、それ以外は邪魔とばかりにバッサリと削ぎ落されています。
これは過去のFFのナンバリングタイトルで何度も行ってきた新しい挑戦なのでしょうか?私は違うと思います。
少々乱暴な言い方かも知れませんが、新しい挑戦ではなく”挑戦を諦めた破壊”だと思っています。
制作陣は中世ヨーロッパの時代がモチーフでフォトリアルな世界だから“嘘がつけない”と対談で語っています。
しかし、プレイヤーは嘘をつかないで欲しいと思っているのではなく、上手に嘘をついて欲しいのです。その上手な嘘こそがプレイヤーが感じる面白さに直結するからです。上手な嘘を体験したくてプレイヤーは高いお金を払っていると言っても過言ではありません。
しかし、FF16はカットシーンと辻褄が合わなくなる要素をほとんど排除しています。つまり、上手な嘘をつくことを諦め、徹底的に排除することでカットシーンに説得力を持たせようとしています。
結果として、RPGモドキが出来上がってしまったという印象です。
メタクリティックなどの批評サイトでFF16に低評価を付けている人の多くが「これはファイナルファンタジーではありません。」と書いていますので、私の考えもそれほど的外れではないと思います。
RPGモドキ
偉そうなことを言っていますが、実は私も”RPGモドキ”をプレイヤーに押し付けた事があります。
高校生の頃、私はテーブルトークRPGにドハマっていました。テーブルトークRPGとは、紙、鉛筆、ダイスなどの道具を使いながら、ルールに従って参加者同士で会話を楽しむゲームのことです。「ゲームマスター」というゲームの進行役が、物語やその場の情景などを語り、「プレイヤー」は登場人物として自由に行動をしながら物語に介入していきます。
FFやドラクエなどのコンピューターRPGは、このテーブルトークRPGから派生したものと言えます。
当時、私はオリジナルのシナリオをいくつも創作して、友人にプレイヤーとして遊んでもらっていました。しかし、ゲームマスターを始めて間もない頃は、なかなかプレイヤーを楽しませることができませんでした。
当時の状況を会話形式で再現してみますので、あなたがもしプレイヤーだとしたら、どちらのパターンが楽しいと感じるか考えてみてください。
パターン①
ゲームマスター「通路の先に観音開きの大きくて分厚い鉄製扉がある。どうする?」
プレイヤー「扉の前まで進む」
ゲームマスター「扉は施錠されているみたい。どうする?」
プレイヤー「開ける」 ダイスを振って開錠の成功判定を行う。
ゲームマスター「人がギリギリ通れるくらい開いた。扉の先に部屋がある。どうする?」
プレイヤー「入る」
ゲームマスター「宝箱を見つけた」
パターン②
ゲームマスター「通路の先に扉のようなものが見える」
プレイヤー「どんな扉?」
ゲームマスター「まだ遠いのでよく見えない」
プレイヤー「周りに他の通路はない?」
ゲームマスター「うーん、一見すると他に通路らしきものは見当たらないけど・・・」
プレイヤー「・・・よし、扉の近くまで行ってみよう」
ゲームマスター「観音開きの分厚い鉄製の扉で、高さは3メートル以上ありそう」
プレイヤー「大きいな。開けられるか試してみよう」ダイスを振って開錠の成功判定を行う。
ゲームマスター「なんとか人がギリギリ通れるくらいは開いた」
プレイヤー「先はどうなってる?」
ゲームマスター「暗くてよく見えない」
プレイヤー「罠を警戒しながら入る」
ゲームマスター「薄暗い部屋で、隅に木製の大きな箱が置かれている」
プレイヤー「開けてみよう。鍵穴はある?」
ゲームマスター「あるね。どうやら宝箱のようだ」
パターン①は、私がまだゲームマスター初心者の頃の様子です。プレイヤーは受動的に行動するだけなのであまり楽しいと感じません。FF16で長時間カットシーンを観ている時間と似ています。つまりこれがRPGモドキです。
対してパターン②は、①と同様にゲームマスターはプレイヤーをしっかり誘導していますが、プレイヤーは能動的に行動していると錯覚しているので楽しいと感じます。
つまり、上手に嘘をつくということは、言い換えれば、”プレイヤーが自由かつ能動的に物語に介入していると錯覚を起こさせる”ということなんです。
これがRPGにおいて何より重要だということを、私はテーブルトークを通して学びました。FFはナンバリングを重ねるごとにパターン②からパターン①へ徐々に移行し、RPGモドキに近づいているように思えてなりません。
ストーリードリブンの落とし穴
『ゼルダの伝説 ティアーズ オブ ザ キングダム』は発売から3ヶ月弱の現時点で、販売本数1851万本を記録した誰もが認める神ゲーです。
私も100時間以上夢中でプレイしたので分かりますが「育成」「探索」「謎解き」などRPG要素(ゲーム性)を軸として作られていて、ストーリー(カットシーン)は引き立て役としての位置づけになっています。このバランスが絶妙なのです。
対照的にFF16は「ストーリードリブン」と言われているように、シナリオを軸として作られていて、RPG要素の多くが排除されているので、ゲーム性はアクションに大きく依存しています。
ところがアクションもシナリオ優先の影響を受けて中途半端な仕上がりになっています。制作陣が「アクションは2週目からが本番」というプレイヤー心理を無視する発言に違和感を覚えなくなってしまっているのも、ストーリードリブンの落とし穴にはまっているからだろうと思います。
日本人の怒り
日本人がFF16を執拗に叩くのは作品が日本人の方を向いていない事を隠そうとしていないと感じるからです。
バトル後の報酬画面は全て英語表記で、いったい何を倒したのだが、懲らしめたのだか、殺したのだかわかりません。エログロの演出も、愛を伝える台詞が恥ずかしいほどに直接的なのも、コマンド式を捨ててアクションゲームにしたのも、全て海外がメインターゲットであることをプレイして痛感したからです。
中世ヨーロッパがモチーフだから、日本語のリップシンクは不自然なので実装しませんでしたなんて言い訳は聞きたくないのです。
もちろん販売数の事を考えれば、海外がメインターゲットになるのは仕方がないと理屈ではわかっていますが、日本で生まれたFFは日本のファンと共に育ってきたのに、作品全体から海外優先のコンセプトが必要以上に漂ってくるのだから叩きたくもなります。
批判の裏には深い悲しみや寂しさがあるのです。
因みにゼルダの伝説も今や圧倒的に海外の方が販売本数を稼いでいますが、プレイしていて海外優先のコンセプトが漂ってくることは決してありません。
オマージュを通り越して
FF16は他作品の模倣がてんこ盛りの作品です。元ネタと思われる作品名を挙げると、『ゲーム・オブ・スローンズ』『ロード・オブ・ザ・リング』『ゴジラ』『ネバーエンディング・ストーリー』『スタンド・バイ・ミー』『ウィッチャー3』『ゼルダの伝説』『デビルメイクライ5』『進撃の巨人』『ドラゴンボール』『クレイモア』等々
FFは過去のナンバリングタイトルでも多くの作品の要素をオマージュとして取り入れています。しかし、今回の『デビルメイクライ5』は完全にアウトです。
FF16とデビルメイクライ5の戦闘モーションとエフェクトを比較した動画を観た時は本当に泣きたくなりました。
FF16 DMC5 比較動画
プロデューサーはデビルメイクライ5をプレイしたことがなくて、純粋に知らなかったのではないかと疑うほどです。
FF16のコンバットディレクターが元カプコンでデビルメイクライを作っていた人だからとか、そんなの全く関係ありません。
オマージュを通り越して完全な流用(パクリ)です。中華ゲームなら炎上して即配信停止されるレベルです。デビルメイクライヴと揶揄されるのも至極当然です。
子供の頃からFFの革新性や独創性に胸を躍らせていた私は、こんなFFが世に出るなんて夢にも思いませんでした。
10. システム
プレイすれば分かりますが、FF16のシステムからは親切や配慮という皮を被った”脅え”がそこかしこに漂っています。
「プレイヤーに媚びている」とか「プレイヤーを信じていない」と表現する人も居ますが、概ね似たような感情を読み取っているのだと思います。
自分たちが最高に面白いと信じるものを作れば、ユーザーにもきっと届くはずという信念が感じられないのです。
リスク&リターン
FF16には、ゲーム性を高める”リスク&リターン”がほぼありません。
ダンジョンの至る所にポーションが落ちていて回復に困る事はありませんし、余程アクションが苦手でなければ通常戦闘でゲームオーバーになることはほぼありません。つまり、リスク(緊張感)をほぼ感じません。ボス戦では稀にゲームオーバーになることはありますが、ポーションの所有数が復活して、ボスの体力が削られた状態からリスタートしますので、リターン(達成感)もほぼありません。
レベリングも必要ないので、低レベルで強敵を攻略するリスクもリターンもありません。お金は中盤から余るので、装備購入による金欠リスクもリターンもありません。
プレイヤーにとってカットシーンを観る以外は、アクションも含めて全て”おまけ”です。これで面白いはずが無いのです。
無敵のAIロボット
FF16には仲間の育成要素がありません。
ついでにHPの概念もないので無敵のAIロボットとして雑魚を蹴散らしてくれますが、カットシーンとの辻褄を合わせるために一緒に戦っている風に見せているだけでゲーム性の欠片もありません。トルガルが覚醒しても正直言って他人事です。
スイカに塩
「パルスのファルシのルシがコクーンでパージ」
これはFF13の難解な世界観を揶揄する言葉として有名です。とは言え、独創的な世界には多くの固有名詞が必要なのも事実です。
ですから、「アクティブタイムロア」は多くのレビュアーに絶賛されています。私もキメの細かい配慮に驚かされましたが、一つ腑に落ちない点がありました。
それはワールドマップに国名が表示されないことです。地名もカーソルを合わせなければ表示されない仕様になっています。
もし、アクティブタイムロア、ヴィヴィアン、ハルポクラテスの備忘録の存在価値を高めるための仕様だとしたら、プレイヤーからすれば親切の押し売りです。
例えるなら、スイカに塩を振りかけて食べるようなものです。甘味を際立たせるために塩味を加えるのは理屈では正しいですが、 結果的にそのまま食べるよりも不味くなってしまいます。
FF16にはこのように頭でっかちな仕様がいくつもあります。
ダッシュ&ジャンプ
町でダッシュができないのは、マップの移動可能範囲が分かり辛いので、ダッシュ中に障害物や見えない壁にぶつかると、映像に違和感が出て没入感を削がれると考えているからではないかと推測します。
バトル中は重力を完全無視して空中を飛び回るクライヴですが、町ではジャンプ力が凡人以下になるのもダッシュと同じ理由でしょう。
ミニマップと同様に、没入感を気にし過ぎるあまり、プレイヤーが感じるストレスを無視するのは本末転倒だと思います。
11. 演出
通常バトルの派手な演出との整合性を保つために、召喚獣戦は極端なインフレ演出が多用されています。
大陸を舞台にした作品であるにも拘わらず、バハムート戦では宇宙空間に飛び出して大陸ごと吹き飛ばせそうな核兵器並みの火力でドンバチするという、現実とかけ離れ過ぎた頓珍漢な演出となっています。
これではどんなにシナリオを練り上げたとしても感情移入するのは難しいです。
因みに制作陣がDVDBOXを購入してお手本にしたと言われているアメリカのテレビドラマシリーズ『ゲーム・オブ・スローンズ』には、FF16と同様にファンタジーでは定番のドラゴンや異形の生物が登場しますが、あくまでも重厚な群像劇を盛り上げるスパイスとしての位置づけであって、その世界観は現実との距離感が適度に保たれています。
12. 音楽
先に言っておくと、私は自他共に認める植松伸夫さんの大ファンです。
子供の頃から植松さんの紡ぐメロディーに魅了され続けてきました。私は植松さんをゲーム界のモーツァルトだと思っています。
ナンバリングタイトル発売を何年かに一度のお祭り事のように表現する人がいますが、植松さんが作曲されていた頃のFFは、私にとって夏祭りの花火のような一瞬の煌めきではありませんでした。
なぜなら、プレイを終えてもサントラは次のナンバリングタイトルが発売されるまでずっと聴き続けていたからです。しかも、新作FFが発売される度に当たり前のように神曲が増え続けていったのですから本当に良い時代でした。
そんな私のレビューであることを前提に以降お読みください。
荘厳さの安売り
FF16の音楽の印象を端的に表すと、ゲーム音楽というよりも”映画音楽”です。
環境音楽やヒーリングミュージックにも近く、穏やかな場面の曲は、メロディーはあるにはありますが大きな起伏や情緒あふれる展開はあまり無く、サラサラと流れるように特定のフレーズが繰り返され、脇役に徹している印象です。
一方、召喚獣戦などでは「荘厳」「壮大」という言葉が相応しい、まさに映画音楽という感じの曲になっています。
しかし、私にとっては全てが物足りませんでした。
私は学生の頃、ゲームのサントラCDの収集が趣味だったほどのゲームミュージックフリークです。そんな私でも残念ながらプレイ後にもう一度聴きたいと思える曲はありませんでした。
特に召喚獣戦の曲はプレイ中の感情の高まりがほぼ無かったからなのか、荘厳さが耳障りに感じてしまって、どの曲も同じように聴こえてしまいました。
海外で好まれそうなオペラ風のコーラスが入ったエピックな曲調は、メインターゲットが海外である以上、今後のナンバリングタイトルでも多用されるのは必定ですが、ラスボスの曲だけにするなど、もう少しメリハリをつけてもらいたかったです。
楽譜の押し売り
ゲーム内で曲を買うというギミックはMMOの世界では面白いのでしょうか?
私は没入感を削がれるどころか、完全に白けてしまうので出来れば止めて欲しいです。
FF16はオーケストリオンで楽譜を買う以外にまとまったお金の使い道が無いので、「楽譜を買え!」と言われているようでとても嫌でした。
月を見せないで
米津玄師さんの『月を見ていた』は良い曲ですよね。ですが「月を見ていた~♪」のタイミングでクライヴに月を見せないでください。MVなどを制作しているプロに演出を頼むか、監修してもらったほうが良いのではないでしょうか。
FFのアイデンティティ
個人的に懇願したいのは、「プレリュード」をタイトルバックのBGMとして使うなら、できるだけ美しい旋律を崩さずにアレンジして欲しいです。
プレリュードはドラゴンクエストの序曲と同じようにFFのアイデンティティとしてこれからも大切に扱って欲しいです。
13. エンディング
エンディングに庭で遊ぶ兄弟を窓越しに映すシーンがありますが、映画『スタンド・バイ・ミー』のラストシーンの演出に似ていたので、FF15の「スタンド・バイ・ミーの悪夢」が蘇ってしまって、心底萎えました。
もう『スタンド・バイ・ミー』の事は忘れてください。
【脱線】スタンド・バイ・ミーの悪夢
私はスティーブン・キングの作品が大好きで、その中でも特にお気に入りなのが、映画『スタンド・バイ・ミー』です。
私はFF15のタイトルバックで映画『スタンド・バイ・ミー』の主題歌が流れた瞬間の激しい怒りと絶望が今でも忘れられません。
この演出は、当時FFオタク界隈から“ダサい”と言われていましたが、個人的には“ダサい”を遥かに通り越して“愚行”だと思いました。
例えるならFFのタイトルバックにドラクエの序曲を流すようなものです。
確かに、既に世に存在する曲をBGMとして採用しているゲームはいくつかあります。
例えば『マイト&マジック』のタイトルバックで使われている『パッフェルベルのカノン』は他の多くのゲームでも使われています。
しかし、300年近くも前のクラシックと、たかだか約30年前の映画の主題歌ではわけが違うのです。
FFの音楽を愛していた私にとっては衝撃の出来事でした。
クライヴの死
クライヴが身を賭してジョシュアのナイトとして生きるという信念を貫いたところは、物語として一本筋が通っていて良かったと感じました。
ただ、折角の最大の伏線回収をクライヴの生存を匂わす演出で濁してしまったのが残念でした。
確かにFF16のストーリーを面白いと感じるプレイヤーセグメントは、理屈よりも感情を優先するタイプだと思いますので、単純で分かりやすいハッピーエンドを好むだろうと思います。
事実、FF16を好意的に受け止めているレビュワーはもれなくクライヴは生きていると考えています。そういう意味では、エンディングは絶妙な演出として評価されるべきでしょう。
でも私は、クライヴが死ぬという結末にもっと自信を持って良かったのではないかと考えています。
もしDLCでクライヴが生きていた事になったら、私のFF16の評価は、「退屈なゲーム」から「クソゲー」へ格下げになる可能性が高いので、できれば止めて欲しいと思っています。
さて、書こうと思えばツッコミどころはまだまだたくさんありますが、私の深い悲しみは十分に伝わったと思いますので、このくらいで止めておこうと思います。
FF17が世に出る頃、私の中でFFへの愛が復活していたらいいなと思います。その時まではゲームを楽しめる自分でいられますように・・・
最後に、植松伸夫さんが紡いだ美しい旋律と、フィンランドの民族楽器カンテレの音色をお楽しみください。
FFVより Tenderness in the Air
あぁ、心の霧が晴れてゆく・・・
最後までお読みいただきありがとうございました。